北鎌倉らしい街づくりを目指す「北鎌倉まちづくり協議会」(http://www.kitakamakura.org/)が11月2日に「北鎌倉匠の市」と同時開催した「北鎌倉・秋の八景巡り」に同行した。コースは、東慶寺―北鎌倉駅―山中稲荷―台稲荷―成福寺―八雲神社―雲頂庵―円覚寺洪鐘。番外で、路地の「おちゃぶきさま」、光照寺の「おしゃぶきさま」、厳島神社など。ガイド役は鎌倉シルバー・ボランティアガイド協会(電話0467-24-6548、FAX0467-24-6523
)の酒井保前会長。酒井会長によると今回の「北鎌倉・秋の八景巡り」のキャッチフレーズは「神宿る北鎌倉の聖域を歩く」。
▽名優・笠智衆が眠る成福寺
4月開催の「北鎌倉・春の八景巡り」のエッセンスを盛り込んだ「ガイドブックに載らない北鎌倉の神々」(おちゃぶき様とおしゃぶき様&安倍晴明石―http://membe
r.nifty.ne.jp/Kitakama/2/2003/609.html)では、北鎌倉の春を紹介したが、PART2はこの続編。秋から初冬バージョンである。成福寺と厳島神社、それに八雲神社にスポットライトを浴びせてみた。
北鎌倉といえば瞬間的に頭に浮かぶのが映画界の巨匠、故小津安二郎監督。小津監督は北鎌倉をこよなく愛し、北鎌倉を舞台に数々の名作を世に送りだした。今年は生誕100年(企画展 「生誕100年記念
小津安二郎」−未来へ語りかけるものたち―http://member.nifty.ne.jp/Kitakama/9/dengon4.html)。小津監督を偲んで、北鎌倉に限らず、日本各地のゆかりの地で、さまざまな行事が催されている。
小津監督は1963年12月12日、60歳の誕生日に亡くなった。 今は晩年を過ごした北鎌倉の円覚寺の墓に眠る。
この小津監督の映画とは、切っても切れない関係にあるのが、俳優の故・笠智衆。笠智衆は最初に紹介する成福寺で、ひっそりと眠っている。命日の12月12日、小津監督の代表作の一つである笠智衆主演の「東京物語」がテレビで放映されていたので観た。「うまいなー」。思わず、言葉が口に出た。笠智衆はまぎれもなく名優である。あらためてそう思った。
▽鎌倉にある唯一の浄土真宗のお寺
成福寺は、JR横須賀線の大船駅と北鎌倉駅の間の線路沿い(北鎌倉駅に向かって左側)にある。子袋谷の踏切の少し手前だ。鎌倉にある唯一の浄土真宗のお寺である。
笠智衆は熊本県出身。生家は浄土真宗のお寺・来照寺だった。 法名は「憶念院釋智衆」。俗名がそのまま法名になっている。小津監督と笠智衆はある意味では、「映画の神様」といえるかもしれない。茅葺きの山門がかっこいい。貞永元年(1232年)、鎌倉幕府三代執権北条泰時の子「泰次」が開山した。本尊は阿弥陀如来。観光スポットではないので、拝観料は不要だ。
「鎌倉幕府の成立に伴って、鎌倉の地に都市が出現した。当時、鎌倉には現在の人口と同じ、17万人もの人々が集まっていた。道路工事などの都市のインフラ整備のために、多くの土木作業員が必要だったからだ。平安時代の末期から鎌倉時代にかけて、仏教界では次々に新宗派(浄土宗、浄土真宗、時宗、日蓮宗、臨済宗、曹洞宗)が生まれた。こうした新宗派にとって、格好の布教のターゲットになったのが『新都市住民』。『新都市住民』に対する布教の先頭を切ったのが、浄土宗を打ち立てた法然だった」と酒井さん。浄土真宗は、法然の弟子の親鸞が、「念仏さえ唱えれば誰でも往生できる」という法然の「専修念仏」を受け継ぎ、徹底させることによって確立した。
▽厳島神社は成福寺の鬼門除け神社
厳島神社は小袋谷の鎮守である。成福寺裏の亀甲山の頂上に建つ。成福寺の門前から北鎌倉方向へ少し歩いて、左に曲がると突き当たりに山上にある厳島神社への石段がある。「かつては『弁天さま』と呼ばれ、成福寺の南側、現在の横須賀線踏切の外側にあった。周辺の吾妻社、八幡社と1年に1社ずつ祭祀を行っていたが、関東大震災で倒壊し、昭和の初めに3社が合祀され、厳島神社となった。現在は、もと八幡社のあった場所にある。八幡社は応神天皇を祭神とする、成福寺の鬼門除け神社だった」(鎌倉の神社 小辞典、かまくら春秋社)。
厳島神社と成福寺の「共存」は、「神仏習合」の名残りである。平安時代、仏教の普及に伴い、日本古来の神々と仏とは本来、同じものだとして、寺に神社を祀ったり、神社を寺にした神宮寺がつくられ、「神仏習合」化が展開されるようになった。現在は、神様は神社、仏様は寺院と、はっきり区別されているが、これは明治維新後の「神仏分離」によるものだ。参道を登る途中の左側には3基
の災い防止を目的に建立された庚申塔がある。庚申塔について詳しく知りたい方は、鎌倉シニア通信(http://www.kcn-net.org/senior/tsushin/)に鎌倉市の庚申塔に関する調査報告が掲載されているので、アクセスすることを勧めたい。
▽八雲神社は山ノ内の鎮守で、眺望は北鎌倉で一番
八雲神社は山ノ内の鎮守である。北鎌倉駅の円覚寺側の改札口を出て、下りホームに沿った小道を大船方面に向かう。右側にある石段が二つあるが、二番目の石段が参道になっている。八雲神社は、約550年前に当時の実力者上杉氏が、京都の八坂神社を勧進したもので、明治時代の廃仏毀釈までは、山ノ内祇園社と呼ばれていたようだ。
高台にあるから、境内から北鎌倉の街並みを一望におさめることができる。「眺望は北鎌倉で一番ですね。目の前に見える台峯は単なる山(緑地)ではありません。御神体、つまり神様が座っています。パワーがある、ありがたい場所です」。宅地開発問題に揺れる台峯を指差しながら酒井さんが、解説してくれた。確かに、すばらしい眺望である。特に春。山桜に包まれた台峯を見ていると夢の世界へ誘われるような幻想的な気持ちになる。(http://member.nifty.ne.jp/Kitakama/tokusyu/2.htmlに春の北鎌倉の写真掲載)
▽ユニークな「行会」(ゆきあい、結婚)」の神事
「鎌倉時代の鎌倉の北の境の祈祷所の跡、とも言われている。神社の勢力範囲はかなり広く、昭和半ば迄は、お祭りも盛大であり、横浜南部から藤沢辺りまでの総鎮守のような立場で、昭和中期までは小袋谷迄鎌倉街道沿いに出店が並んだとか。また、鎌倉の南の境である坂ノ下と並んで、面掛け行列もあった。明治の廃仏毀釈後も円覚寺・建長寺など寺院との関係も深く、また、山崎の北野神社祭神との『行会』(ゆきあい、結婚)の神事がある等、とてもユニークな特徴を持っている」。八雲神社に詳しい地元のYさんが後日、さらに詳しい情報を寄せてくれた。
▽青面金剛は魔除けとして境界線に
境内には「北鎌倉・春の八景巡り」でリポートした平安時代中期の陰陽道の大家・安倍晴明ゆかりの「安倍清明石」の他、寛文5年(1665年)の銘をもつ庚申塔がある。鎌倉では一番古く、かつ、大きいといわれている。11基あるが、その中に大きく「青面金剛」と刻まれた石碑がある。酒井さんの説明では、かつて魔除けとして境界線に建立されたのだという。
その地域特有の病気である風土病に対しては、そこにずっと住んでいれば人間の体内には自然と抗体ができ、風土病への抵抗力がつく。しかし、この風土病が別の地域に持ち込まれた時、別の地域では抵抗力がないから死人が何人も出る。そこで、先人は「青面金剛」の石碑を特に病気にかかりやすい、妊婦や子どものための魔除けとして部落と部落の境界線にたてたのだという。新型肺炎(SARS)、エイズ、エボラ出血熱は地域限定版の風土病だったが、グローバル化の進展で世界共通の病になったという事実を踏まえれば、酒井さんの説明は、実に興味深い。
▽北鎌倉恵みシリーズの売上を寄付
北鎌倉湧水ネットワークと北鎌倉湧水ネットワークの特別協賛会員である横浜ビール(http://member.nifty.ne.jp/Kitakama/shop/umaya.html)、ユスラウメ(http://member.nifty.ne.jp/Kitakama/shop/yusuraume.html)、六国亭(http://member.nifty.ne.jp/Kitakama/4/B/2.html)、北鎌倉ベルタイム珈琲(http://member.nifty.ne.
jp/Kitakama/4/B/3.html)、田子作本舗(http://member.nifty.ne.jp/Kitakama/4/B/7.html)は、「北鎌倉の恵み」シリーズ(http://member.nifty.ne.jp/Kitakama/4/4.html)を11月1、2日開催の「北鎌倉匠の市」に今回も出展した。
初日は危なっかしい天気だったが、二日目は好天に恵まれ、北鎌倉恵みシリーズの売れ行きはまずまずだった。ささやかではあるが、この売上の一部(2万円)を主催者の「北鎌倉まちづくり協議会」に寄付した。
(了)
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