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生まれ出(いづ)る期待と怖れ―晏侶展―
2003年5月1日(木)〜6日(火)  場所・白雲庵

 

 ある日の朝のことだった。出来上がった石塑像を乾かすために窓を明け、石塑像を窓辺に置いた。すると前を通りかかったおばあさんが、近寄ってきて石塑像に手を合わせた。こんなこともあった。友人宅に届けようと作品を風呂敷に包んで、歩いていた時のことである。少し、中身が見えた。偶然、すれ違った人が、もっとよく見せて下さいと言った。風呂敷をほどくと、その人も作品に手を合わせた。晏侶さんの石塑や石でつくった作品には、人を思わずそういう気持ちにさせてしまう、何かがある。

▽子宮の中の胎児
 晏侶さんと初めてお会いしたのは、私がときどき顔を出す、北鎌倉駅前の侘助だ。
侘助は茶房兼居酒屋で、晏侶さんはこの店の常連さんだ。「六国見山の麓の宅地開発地の石を使って、石像をつくっているんです」。何をしているのかという、不躾な私の問いへの答えだった。
 
 昨年11月、晏侶さんの作品にじっくりと触れる機会に恵まれた。晏侶さんは北鎌倉まちづくり協議会主催の「北鎌倉匠の市」に出展したのだ。
*北鎌倉まちづくり協議会
http://www.kitakamakura.org/
 
 出展場所の浄智寺参道には、晏侶さんが精魂傾けて創作した石塑像群が並んでいた。石塑像群を見詰めているうちに何か遠い懐かしい記憶を辿るような気持ちになった。それも「ぬくもり」にも似た感覚を伴って。「なぜだろう」。しばらくして、「そうか。石塑像は母親の子宮の中にいる胎児そのものなんだ」と思った。

 父と母が結ばれて、人間は生を受ける。では生を受けた人間にとって、この世で絶対的な安心感がを得られる場所はどこか。それはきっと、母親の子宮の中にいた時ではないか。絶対的な安心感を得られる場所から、未知なる外界への旅立ちは希望とスリルが、背中合わせになっている。人は期待と喜びの感情に包まれると同時に、本能的な怖れの感情を抱く―。 

▽生活は極めてシンプル 
 漂泊の造型作家、晏侶さんは、物欲をまったく感じさせない不思議な人である。生活は極めてシンプルだ。二間のアパートに住む。もちろん(?)借家だ。最低限、衣食住に必要なもの以外に、部屋に置いてあるのは自分の作品と作品の素材となる石塑と石ころ。新聞もテレビもない。唯一の文明の利器は、抽選で当たったという景品のラジオ。

 夜8時か9時に寝て、朝2時か3時に起きる。そして創作にかかる。「手でこねているうちに形になる。同時に言葉も出てくる。一番創作意欲が高まるのは午前4時頃だ」。一日2食。食事の中身は、胚芽米とおかずの野菜の煮物だけ。本物の僧侶を彷佛させる生き方だ。「仏教は意識していないが、追い求めているものは、同じかもしれない」。

▽一番の基本は布施の心
 放浪生活を送っていた時のことである。場所は男鹿半島。次の宿が決まらずに困っていた。「うちに泊まりなさい」。老夫婦が声をかけてくれた。「見ず知らずの人間を泊めてくれるなんて、本当にありがたい。これは仏教の『布施』の世界に通じることなのかもしれない」。

 男鹿半島での体験は、その後の生き方を整理する上で、大きな参考になった。「人間が生きる上での一番の基本は『布施』の心。絶対に忘れてはいけない。そして人間は生きているのではなく生かされているということも。一日一日を大切に生きなければ。明日があるからといって、今日一日をおろそかにしてはいけない」。いつもこう、心に言い聞かせている。

▽ベースは日本画
 出身地の福山市は下駄の産地である。子供の時から下駄のデッサンを描いては、いろいろなところで賞をもらった。ごく自然に日本画の世界に入っていった。その後、わけがあって、仏画を描くようになった。しかし、1998年筆を折った。

 「線では表現できなくなってしまった。例えば、牛を繋ぐ綱。この綱は切れてもいけないが、牛を束縛してもいけない。この綱を線では表現できない。人間の表情でも同じことがいえる」。うだうだした状態が続いていた。「そんな時に侘助で、造型作家の稲田吾山氏から、石を彫ったら面白いよ、その辺にある石でいいんだからと言われた」。稲田氏も侘助の常連さんである。

▽北鎌倉では思いきって息ができる
 故郷ではないが、北鎌倉は住みやすいと考えている。「周りの人がやさしくしてくれるし、思いきって息ができる」。それと安心感。「パチンコ屋もキャバレーもない。車や電車の音を別にして、無機質な音がしない。知らない人に挨拶が可能だ。帰ってきたなという感じがする」
 侘助へ作品を持っていった時のことだ。作品を黙ってみていた常連さんが、泣き出した。(伝統的な狩野派の画風に西洋の画法を取り入れて近代日本画の発展に大きく貢献した)狩野芳崖の絶筆「悲母観音図」が描き出した世界―。これが物欲を感じさせない「表現者」、晏侶さんが自らに課した究極の目標である。

▽「父・母・恩・重」
 来る5月1日(木)〜6日(火)まで、北鎌倉駅裏の白雲庵で、晏侶さんの作品をじっくりと観賞できる個展「父・母・恩・重」(仮題)が開催される。落ち着いて観賞できるように、座ぶとんが用意してあるかもしれない。「眼が表現できなくて、のたうちまわっています」と言っていた晏侶さんが、この個展にかける意気込みを私に宛てた最近の手紙の中で次のように述べている。

 ―自分の親への思いと*「周氏」の「言葉」と「文」が作品に表現出来得たか? 潰した作品の方が多くなって個展に!どれだけの作品ができるか? 今回の個展は「父・母・恩・重」(仮題)ですが、「子供を持って知る」親。「親」の「慈悲」です。「親父」になっていない人間が、どれだけ表現出来得たか? 「親父―。」「母(か)〜さん」の言葉のほかにも言葉が作品の題になって、創作してきました。作品によっては「音」だけ、「言葉」が必要ないと思った作品もあります。「一身同体」か?「一心同体」か?―

 *周氏とは作家の藤沢周氏のこと。今回出展する「親子像」は、周氏が、エッセイ集か新聞に寄稿した「親父の背中」というタイトルの文章の中からイメージを得たという。周氏はこの中で「私と親父は離れていても一緒だった」「周のつくったラーメンはうまい〜」と書いていた。 

▽晏侶(あんりょう)さんの略歴
 1953年1月16日生まれ。広島県福山市出身。69年日本画家の藤原正道氏の内弟子となる。70年藤原氏死去に伴い佐野喜一氏に入門。77年佐野喜一氏が死去したため、独学で日本画を描く。以後、83年までさまざまな仕事を経験する傍ら、日本各地をスケッチ旅行、デッサンにも励む。83年日本画家の森戸國次氏(故人)に師事し、「花鳥風月」を描く。87年再度、日本各地をスケッチ旅行後、仏画を描く。同年、仏師の本宮光照氏に出会い、雅号「晏侶」を拝名。98年、筆を折る。同年造型作家、稲田吾山氏に師事、石塑像、石像の制作を始める。99年画材、ギャラリー経営者須長健二氏らの勧めで、初個展「石塑像 喜怒哀楽」を開催。2001年個展「風姿百態」(石塑像と石像)を開催。「北鎌倉匠の市・展」に出展。02年ドイツの新聞「ベルリーナー・ツアイトゥング」に紹介される。「北鎌倉匠の市・展」

▽晏侶さん連絡先
 住所 鎌倉市山ノ内745 山ノ内ハイツ202
 電話 090-1601-0147

▽白雲庵(JR北鎌倉駅裏)
 電話 0467-22-5009


作品を手にする晏侶さん
(02年浄智寺参道)


石塑像(02年浄智寺参道)

親父の背中(個展「父・母・恩・重」への
出展予定作品)

母子像(個展「父・母・恩・重」への
出展予定作品)

会心作の母子像
(個展「父・母・恩・重」への出展予定作品)

 



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