JR北鎌倉駅の臨時改札口を抜けて、右に足を運ぶとすぐに円覚寺の石段が見えて くる。さらに先に進むと参拝者出口につながる石畳のなだらかな坂がある。その登り
口のいつもの決まった場所で、今や「北鎌倉名物」となった一人のおばあちゃんが、 ほぼ毎日、通りすがりの人とにこやかに挨拶を交わしている。
おばあちゃんの名前は、萩原キヨ子さん。年齢は「そんなもの忘れてしまったわ」 。20年前から観光客相手に一部200円の「古都鎌倉 てくてくまっぷ」を売ってい
る。3キロ離れた自宅からバイクに乗ってやってくる。夜明けの早い、今の時期には 、午前5時半に到着する。観光客の姿が見えない。しかも、ひどい雨の日以外は、毎
朝欠かさずやって来る。
「スズメに会うために来ています。スズメが、私の餌を待っているんですよ」。あ る日、雨だったので「てくてくまっぷ」を売りに行かなかった。すると雨が上がった
夕方、自宅の二階の窓の外から小鳥のさえずりが聞こえてきた。窓を開けてみると「
ピーピー」というさえずりは、なんと萩原さんが「ピーちゃん」と呼んでいるスズメ たちだった。
「数え切れないほど大勢でした。おなかがすいたから、私に餌をねだりに来たんで すね。『ピーちゃんごめんよ』と思わず泣いてしまいました」。スズメの餌は、毎朝
午前3時に起床し、約40分かけて、食パン3斤を熱いお湯で練って作る。これを一 晩、冷蔵庫の冷凍室で冷凍し、翌日野菜室に移す。
20年間も「てくてくまっぷ」を売っていると、人間のさまざまな面を目の当たり にすることになる。「50歳から60歳の女の人で、悪い人がいます。男の人とか、
若い人に悪い人はいませんね」。お金を払わないでまとめて「てくてくまっぷ」持っ ていこうとする。「有料ですよ」というと「あら、ただじゃなかったの」すまし顔で
いう。グループでやって来て、1部の料金しか払わないで、仲間の分も失敬しようと するけしからん輩もいる。ひどいのになると「京都から来たが、財布をすられたので
、お金を貸して」と泣きつく。断ると別の場所で、お年寄りに無心を繰返す。
「人間に、悪者はいるけど、スズメに悪者はいません。人間よりも人情味があるく らいです」。ある時、足の悪いスズメがいた。萩原さんの近くまで寄ってくることが
できなかった。すると仲間のスズメたちが、萩原さんの餌を自分では食べずにこの足 の悪いスズメに運んであげた。1ヵ月後、足の悪いスズメは死んだ。死骸が萩原さん
のいつもいる場所に運ばれてあった。「仲間が私のところに届けてくれたのでしょう 。亡骸は近くに埋葬し、石を積んで、毎日餌を供えています」
子供たちは既に独立している。3年前にご主人が亡くなったので、現在は猫と二人 (?)暮らし。「てくてくまっぷ」は毎朝300枚から400枚持ってくる。「売れ
たらその時点で、店じまいです。帰宅途中、スズメの餌の食パンを買います。家では 猫が私の弾くバイオリンを聞きたい、と首を長くして待っているんです」 (了)
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