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  旧川喜多邸で小津の映画を見よう!
    ―記念館建設への協力をよろしく―


 JR鎌倉駅から鶴岡八幡宮へ通じる小町通りをぶらぶら歩いて約10分。この小町通りを左折し、窟小路(いわやこうじ)に入ると、すぐ右側に長い板塀が続く。路から望 まれる歴史の年輪が刻まれた風格のある日本家屋と邸内の樹木、そして背後の緑地はいかにも古都鎌倉という雰囲気をかもし出している。
 この邸宅は、敷地面積が約9500平方メートルもある。窟小路を通る度に「一体、どういう人が住んでいるのか」と思っていたが4年前、川又昂松竹映像本部技術顧問に 、国際的な映画人として知られた故川喜多長政、かしこ夫妻の旧宅だと教えてもらった。川又さんは、故小津安二郎監督の映画を撮り続けた。

▽小津の映画が上映される

 旧宅は川喜多夫妻の遺族が1994年、「映画振興のために役立ててほしい」というかしこ夫人の遺言に基づき、「映画資料館」の建設を願って、鎌倉市に寄贈した。寄贈 を受けた鎌倉市は、ここに50席ほどの上映施設、映画関連資料の展示スペース、ゲストルームを備えた「川喜多記念館」(仮称)を建設する計画を立てた。「川喜多記念 館」完成の暁には、川喜多夫妻が日本に紹介した作品や鎌倉ゆかりの映画監督と俳優の作品が上映される予定だ。
 当初計画では2000年度までに、建設するはずだった。しかし、長期不況による税収ダウンで、計画は先送りになってしまった。鎌倉市では2000年4月に、「川喜多記念 館建設等基金」を設置し、市民や映画ファンに記念館の建設の協力を呼び掛けているが、目標の1億円に対し、現在集まったのは約2000万円。建設のメドがたっていない のが実情だ。

▽アラン・ドロンも招かれた
 川喜多夫妻は、世界の映画を日本に、日本の映画を世界に紹介する仕事を通じて、日本文化の質的な向上と国際交流に多大な貢献をした。旧宅には国内の映画人だけで なく、海外の大物映画人も集った。例えば映画監督ではスタンバーグ(米)、サタジット・ライ(インド)、フランソワ・トリュフォー(仏)、ヴイム・ベンダース(独 )、俳優ではジェラール・フィリップ(仏)、アラン・ドロン(仏)、ミレーヌ・ドモンジョ(仏)。世界的な映画史家のジョルジュ・サドゥール(仏)、フランス映画 博物館の創設者アンリ・ラングロア(仏)の姿もあった。
 
▽「寅さんシリーズ」は鎌倉から世に 
 1936年、「松竹キネマ撮影所」が蒲田から大船に転居して以来、鎌倉は日本の映画史にとって非常に重要な地となった。戦前は「愛染かつら」「暖流」、戦後は「晩春 」「麦秋」といった故小津安二郎監督作品を初め、五所平之助、木下恵介、大島渚、山田洋次監督の作品が、大船撮影所から輩出された。国民映画と称されたあの「寅さ んシリーズ」もここから世に送りだされた。小津監督はその生涯を鎌倉で閉じた。原節子、笠智衆といった俳優や多数のスタッフも鎌倉に在住した。

▽映画の街・鎌倉が泣く
 しかし、その大船撮影所は既に取り壊され、跡形もない。また、小津監督がこよなく愛した北鎌倉の景観にとって、非常に重要だった円覚寺の裏山の六国見山の麓の緑 地も、宅地開発を目的に岡山のゼネコン「大本組」が、完璧に破壊してしまった。この緑地には貴重な文化資産である、中世の大規模な鎌倉石の石切り場(北鎌の森から バックナンバー「姿見せた中世の大規模遺跡」参照)が眠っていた。
 このまま「川喜多記念館」の建設が、宙に浮いてしまうようでは「映画の街・鎌倉」が泣く、と私は思う。記念館建設に協力して、旧川喜多邸で映画を見よう! 鎌倉市文化推進課は「多くの市民・映画ファンの理解を得て、早く上映施設を作りたいと考え努力しています」と市民の協力を訴えている。

●「川喜多記念 館建設等基金」について詳細は本サイト内伝言板にも掲載
鎌倉市文化推進課ホームページ
●http://www.city.kamakura.kanagawa.jp/bunka/index.htm

 

                 

 

窟小路から見た旧川喜多邸

 

 

 

****川喜多ご夫妻****
川喜多長政さんの紹介
 明治36年東京生まれ。大正12年北京大学文学部を中退し、ドイツに留学。留学中に映画の持つ国際交流の意義を悟り、帰国後、昭和3年に東洋と西洋の和合を意味する 「東和」と名付けた東和商事を設立し、ヨーロッパ映画の輸入に従事。「アスファルト」「自由を我等に」等をわが国に紹介。昭和14年、国の要請によって中華電影の実 質的な経営者である副社長に就任、直接的には軍に協力せず終戦を迎えた。戦後、昭和26年東和映画を設立し社長に就任、かしこさんと二人三脚で映画による国際交流に 尽力。以後、東宝東和会長、東宝取締役、大沢商会取締役、外国映画輸入配給協会会長、日本映画海外普及協会副会長を歴任。昭和56年5月に78歳で逝去。

川喜多かしこさんの紹介
 明治41年大阪生まれ。フェリス女学院を卒業後、昭和4年東和商事に入社。翌年社長の長政さんと結婚。長政さんとともにヨーロッパ映画の輸入に携わり、「制服の処 女」「第三の男」「禁じられた遊び」等数多くの名作を紹介するとともに、各地の国際映画祭で審査員を務め、映画を通じた国際交流に貢献。フィルムライブラリー助成 協議会(のちフィルムライブラリー協議会と改称)の設立者、財団法人川喜多記念映画文化財団の創始者、国立フィルムセンター設立運動の推進者(昭和45年同センター 設立)として、わが国の映画文化の振興に尽力。これらの業績から、芸術選奨、菊池寛賞、フランス文芸勲章、同国家功労賞などを受賞。平成5年7月に85歳で逝去。


●旧川喜多邸 鎌倉市ホームページ 旧川喜多邸・旧華頂宮邸フォトギャラリーより)
庭から見た母屋全景 旧和辻邸 この建物は哲学者の和辻哲郎が練馬で使っていたものを川喜多夫妻が移築し、海外の映画関係者をもてなすためのゲストルームとして使った。元は江戸末期の建築といわれている。

 

 

 

 

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