宮沢賢治は37年の短い生涯に、1000余首の短歌、800余篇の詩、100余篇の童話、200篇近い文語詩を創作した。没後、70年以上経った今もなお、膨大な作品群は輝きを失わず、多くの賢治ファンを魅了している。しかし、「図説 宮沢賢治」(河出書房新社)の著者の一人である大矢邦宣・平泉郷土館長が「賢治の作品は面白いようでいて、よく分からない。読みかけては何度もダウンした」と指摘しているように、魅力的だが難解である。私は宮沢賢治研究の専門家ではない。でも賢治の一ファンとして、もっと宮沢賢治を理解し、作品を楽しみたい。そのためには宮沢賢治が法華経に深く帰依し、修行僧さながらの実践活動を行った事実に着目し、法華経にアプローチしてみるのも悪くはないと考える。
▽大きく書き込まれた南無妙法蓮華経
話は少し古くなるが、今春、イーハトーブ(岩手県)の風と新緑と新緑に誘われて、仲間と一緒に宮沢賢治の世界を訪ねる2泊3日の旅に出た。賢治が熱心な法華経信者であることは、知っていたが、宮沢賢治記念館に展示されたあった黒レザー装の「雨ニモマケズ手帳」を見て、賢治の法華経信仰の深さを思い知らされた。「雨ニモマケズ手帳」は賢治没後、最初の全集発行の際、遺稿整理中に発見された貴重な資料である。
この手帳の中に代表作の「雨ニモマケズ」が収録されている。「雨ニモマケズ」は病床での悲願自戒の記録だ。手帳には「雨ニモマケズ」の詩の最後の言葉である「ワタシハナリタイ」に続いて、南無無辺行菩薩、南無上行菩薩、南無多宝如来、南無妙法蓮華経、南無釈迦牟尼佛、南無浄行菩薩、南無安立行菩薩と書き込まれてある。南無妙法蓮華経はページの中央にひときわ大きく書かれている。「法華経」は、正しくは「妙法蓮華経」といい、南無は「帰依します」と意味である。
▽初期大乗仏教の代表的な経典
法華経は「1世紀から2世紀頃に編まれた経典で、初期大乗仏教の代表的な経典とされ、…釈迦を語り手に、多くの菩薩や阿修羅、龍といった神々を聞き役に据えて、壮麗な舞台設定のもとで説法を繰り広げる、というものだ。全28品(章)とかなり長い…」(「日蓮がわかる本」監修 ひろさちや 主婦と生活社)。釈迦が説法した場所は霊鷲山(りょうじゅせん)。霊鷲山は古代インドのマガダ国の首都の王舎城を囲む五山の一つである。
「雨ニモマケズ手帳」に書き込まれてあった釈迦牟尼佛(しゃかむにぶつ)は仏教の始祖であるお釈迦さまのことだ。梵語のシャキャムニ・ブッダの音写で、釈迦は種族の名、牟尼は聖者の意、佛は仏陀の略。「仏陀
」とは「目覚めた者」「真理を悟った者」の意味である。多宝如来(たほうにょらい)は、法華経の「見宝塔品(けんほうとうほん)第十一」に登場する仏だ。真理の象徴で、お釈迦さまは、空中にあらわれた「七宝の塔」の中に入り多宝如来とともに座して「法華経を信じ持つことは非常に難しいと」と説いている。
▽四弘誓願文は四大菩薩の誓い
上行菩薩、無辺行菩薩、浄行菩薩、安立行菩薩は法華経の「従地湧出品(じゅうじゆじゅっぽん)第十五」に登場する四大菩薩だ。大乗仏教では、悟りを求める人や求道者を菩薩といい、菩薩は修行を始めるに当たって、四つの誓いを立てる。それを四弘誓願文といい、四大菩薩は、菩薩としての四つの誓いを代表している。
【四弘誓願文】
<安立行菩薩>衆生無辺誓願度(しゅじょうむへんせいがんど)「生きとし生けるものを救うことを願う」
<浄行菩薩>煩悩無尽誓願断(ぼんのうむじんせいがんだん)「すべての煩悩を断つことを願う」
<無辺行菩薩>法門無量誓願学(ほうもんむりょうせいがんがく)「仏の教えをすべて学ぶことを願う」
<上行菩薩>仏道無上誓願成(ぶつどうむじょうせいがんじょう)「無上の悟りを得ることを願う」
▽最後の願いは法華経を届けること
「日蓮がわかる本」に法華経一途の人生を送った「求道者・賢治」の姿が、分かりやすく書かれている。触りを紹介する。
「…宮沢賢治は大変熱心な法華経信者で、亡くなるまで日蓮聖人を敬慕し続けた…また、彼の死が近いことを悟った父が病床の賢治に向かって『何か言い残すことはないか』と尋ねたところ『最後に一つ頼みがあります。自分が死んだら『国訳妙法蓮華経』を一千部印刷して、私が親しくしていた人たちに分けてください』と頼み、経文の巻末に次の言葉を付け加えるように言い残した。
合掌 私の全生涯の仕事は此(この)経をあなたの御手許に届けそしてその中にある仏意に触れてあなたが無上道に入られん事を御願いするの外ありません。―昭和八年九月二十一日 臨終の日於いて、宮沢賢治 これが聞き入れられるとにっこりとほほえみ、母に頼んで持ってきてもらった水をおいしそうに飲んでから、自分で首や手などをオキシフルで洗い清めて静かに亡くなったといわれている…」
▽賢治と法華経との出会いは18歳の秋
賢治と法華経との出会いは、「宮沢賢治」(宮沢賢治記念会発行)によると「18歳の秋に島地大等編『漢和対照妙法蓮華経』を読んで体が震えるほどの感動を受け、以後、法華経信仰を深め、鮮烈な生涯を送った」。島地大等は盛岡の願教寺の26代住職で、近代日本を代表する仏教学者。明治44年8月、賢治が15歳の時、願教寺における仏教夏期講習会で、賢治は初めて島地大等の法話を聞いたという。大正7年に盛岡高等農林学校を卒業後、同9年には、田中智学(たなかちがく)が指導する日蓮主義の在家集団「国柱会(こくちゅうかい)」に入会した。
賢治が亡くなるまで敬慕し続けたという日蓮聖人は、鎌倉時代の1222年2月(承久4年)、安房の国(千葉県)の漁師の子として生まれた。12歳の時安房清澄寺の導善(どうぜん)に入門。ものごとを徹底的に突き詰める性格だったといわれる。奈良時代に全盛期を迎えた南都六宗(律宗、法相宗、華厳宗、三論宗、倶舎宗、成実宗)、平安時代に興った天台宗、真言宗、鎌倉時代の浄土宗、臨済宗のすべてを学び、それぞれを比較対照した。その結果、真実の仏法は「法華経」であるとの確信に辿り着き、32歳の時に自分の宗派「日蓮宗」を立てた。
▽お釈迦さまは永遠の存在
「日本の名僧 法華の行者 日蓮」(佐々木馨編 吉川弘文館)や「日蓮がわかる本」などによると、日蓮が法華経の中で、特に注目し、法華経を最高の経典と信じる根拠としたのが、「方便品(ほうべんぽん)第二」と「如来寿量品(にょらいじゅりょうぽん)第十六」。「方便品(第二」では、声聞(仏の音声を直接聞いた人)・縁覚(無仏の世に出て十二因縁などの法によって修行する人)も含め、すべての人々が救済され、成仏できるとい説かれている。自己の悟りのみを目指す声聞と縁覚は、法華経以前の大乗仏教のお経では、成仏できないとされてきた。
「如来寿量品第十六」では、お釈迦さまの永遠性を明らかにした「久遠実成(くおんじつじょう)」の思想が説かれている。この章では歴史上実在し、菩提樹の下で悟りを開いた釈迦は、実は仮の姿であって、本当は「久遠実成」の仏、つまり五百億塵点劫(じんでんごう)という久遠の過去に悟りを開き、永遠の過去から永遠の未来まで人々を救済しつづけている永遠の仏である、と説く。塵点劫はインドの時間の単位で、はかりしれない時間のこと。仏教に詳しくない私は、人間としてのお釈迦さまを否定するこの考え方を受け入れるのに、だいぶ時間がかかった。キリスト教の「神」を信じるか信じないかという問題に似ているからだ。
▽お題目を唱えれば成仏できる
「日蓮宗」の大きな特徴は、信仰の在り方として唱題(「南無妙法蓮華経」のお題目を唱えること)を提示していることだ。唱題によって、すべての人間が成仏できるとした。「『妙法蓮華経』は、単なる経典の名前ではなく、お釈迦さまの教えが最終的に帰結した大法であり、『妙法蓮華経』の妙法五字の中にこそ、お釈迦さまの功徳のすべてが含まれています。したがって『南無妙法蓮華経』というお題目を唱え『妙法蓮華経』に帰依することによって、すべての人々の『即身成仏』が約束されるのです」(身延山久遠寺HP
よりhttp://www.kuonji.jp/10_engi/10_00201.htm)
平安時代に貴族の教養としてもてはやされた仏教は、鎌倉時代になると庶民の救済のための宗教へと大きく役割を変えた。ただ、庶民は厳しい修行に打ち込むことは不可能である。そこで日蓮は唱題という庶民でも実践可能な救済の方法を提案したわけだ。日蓮宗は日蓮の死後、分裂を繰り返したが、宗派全体としては大きく発展した。
「宗教年鑑」(文化庁編 平成14年度版)によると、日蓮宗系の信者は約2330万人を数える。賢治が入会した「国柱会」以外の主な日蓮宗系の宗教団体としては、日蓮正宗、霊友会、立正佼成会、創価学会などがある。
▽観音菩薩に重なる賢治のイメージ
「観音経」は「法華経」の「観世音菩薩普門品(かんぜおんぼさつふもんぼん)第二十五」の略称である。 この章では、観音菩薩は、さまざまな姿に変身してすべての人々のあらゆる悩みや苦しみを救ってくれる万能の救済者である、と説かれている。「雨ニモマケズ」を読む度に、観音菩薩と賢治のイメージが重なる。
最後に大矢平泉郷土館長の見解を紹介する。「賢治が深く帰依した法華経の特徴は個々の平等、微塵の発想、亡己利他(もうこりた)・菩薩行・折伏である。賢治は何をやっても本当の自分ではない、他にあるはずだと考えた。でも、病弱だったので、体がついていかずその度にダウンし、挫折した。自らの理想を創作の世界で実現しようとしたのではないか。賢治の感性の特徴は『存在と視点の自在性』にあって、これが賢治の文学の最大の魅力になっているた。『存在と視点の自在性』とは、何にでもなれること。これがあるから賢治は虫にも魚にもなれた。『…私のようなみにくいからだでも灼ける時には小さなひかりを出すでせう。どうか私を連れてって下さい。…』。『よだかの星』の一節である。自己犠牲と自己昇華志向―。よだかの星に賢治の求めていた人生が凝縮されている」
【参考】
雨ニモマケズ 宮沢賢治
雨ニモマケズ
風ニモマケズ
雪ニモ夏ノ暑サニモマケヌ
丈夫ナカラダヲモチ
慾ハナク
決シテ瞋ラズ
イツモシズカニワラッテイル
一日ニ玄米四合ト
味噌ト少シノ野菜ヲタベ
アラユルコトヲ
ジブンヲカンジョウニ入レズニ
ヨクミキキシワカリ
ソシテワスレズ
野原ノ松ノ林ノ蔭ノ
小サナ萱ブキノ小屋ニイテ
東ニ病気ノコドモアレバ
行ッテ看病シテヤリ
西ニツカレタ母アレバ
行ッテソノ稲ノ束ヲ負イ
南ニ死ニソウナ人アレバ
行ッテコワガラナクテモイイトイイ
北ニケンカヤソショウガアレバ
ツマラナイカラヤメロトイイ
ヒデリノトキハナミダヲナガシ
サムサノナツハオロオロアルキ
ミンナニデクノボートヨバレ
ホメラレモセズ
クニモサレズ
ソウイウモノニ
ワタシハナリタイ
(了)
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賢治の設計図に基づく南斜花壇 |
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宮沢賢治記念館 |
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雨ニモマケズ…と刻まれている賢治詩碑 |
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奥の建物が羅須地人協会 |
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羅須地人協会玄関横の伝言板 |
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地質学実習場だった北上川岸辺 |
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好んで散策した小岩井農場 |
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宮沢家の墓と賢治の供養塔(写真左) |
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