「南無大師遍照金剛(なむだいしへんじょうこんごう)接待食(く)いでー」「南無大師遍照金剛、接待食いでー」―。
仏教について、いろいろ調べていたら、突然、幼き日の記憶が蘇ってきた。確か、小学校に入る前の出来事だった。故郷の田んぼのあぜ道を母や部落の人たちに連れられて、大声で、冒頭のように唱えながら歩いた。かなりの距離だった。季節は春。途中、よその部落で「おむすび」をいただいた。「食いでー」は、故郷の方言で「食べたい」といいう意味である。少年時代のあの出来事は一体、なんだったのだろうか。
▽故郷と鎌倉を結ぶ千葉氏
私の故郷の地名は、千葉県香取郡東庄(とうのしょう)町。わが国最初の実測日本地図をつくりあげた伊能忠敬ゆかりの佐原市と、日本有数の漁業基地である銚子市のほぼ中間にある農村地帯だ。近くを利根川が流れている。子ども時代はコメ、麦、サツマイモが主力農産物だった。しかし、最近は大消費地に近いという地の利を生かして野菜にシフトしている。「ホワイトボール」という名付けられたコカブの産地、あるいはイチゴ刈りのスポットとして、知名度が上がりつつある。
東庄はかつて橘庄と呼ばれていた。千葉氏探訪(千葉日報社発刊)の著者で地方史研究家の鈴木 左(たすく)さんによると、地名が変わったのは「鎌倉幕府創設者の源頼朝に『常胤(つねたね)は第二の父である』であるいわしめるほど絶大な信頼を得た鎌倉幕府、屈指の御家人、千葉常胤の六男・胤頼が、東庄周辺の領主となり『東』を名乗ったためだ」という。まったく意識していなかったが、故郷と現在住んでいる鎌倉市は、千葉氏を通じて縁があったのだ。千葉氏は鎌倉駅の西口に邸を構えていたという。
▽長兄の死をきっかけに宗派を意識
円覚寺の暁天坐禅会に通うようになるまで、実家の宗派がなんであるか、まったく興味もなかったし、知りもしなかった。私は「団塊の世代」である。きっと、私の世代というか戦後生まれの世代は、似たり寄ったりではないか。2年前、実家の宗教は真言宗であることを知った。知ったというより、意識したというのが正解かもしれない。長兄の死がきっかけだった。
長兄のお通夜に参列したその日の早朝、暁天坐禅会に参加した。坐禅会が終わってから当番のお坊さんに聞いてみた。「これから、兄の通夜に行きます。実家の宗派は真言宗です。お世話になった兄にお経を上げたいと思います。ただ、私の知っているお経は、この坐禅会で教えてもらった『般若心経』、『白隠禅師坐禅和讃(はくいんぜんじざぜんわさん)』、『四弘誓願文(しぐせいがんもん)』の三つしかありません」。「『般若心経』だったら平気ですよ」。般若心経が禅宗と真言宗の両派の共通の「バイブル」的な存在であることを後日、知った。
▽真言密教の神髄は「即身成仏」
真言宗は、わが国最大の宗教的天才といわれる弘法大師こと空海が開祖だ。空海は奈良時代末期の774年、四国の香川県に生まれた。天才、空海は仏教に限らず、文化、教育、社会事業などの分野でも目覚ましい業績を残している。
真言宗は密教である。密教は紀元4〜5世紀に、大乗仏教の流れ中で生まれた。お釈迦様の教えをベースに、インド古来の考え方や慣習などが修行法として折り込まれ、インドから中国に伝わった。遣唐使の一員となった空海が、中国から持ち帰り、体系化した。
私が初めて受講した仏教講座の講師であり、飲み仲間(最近は御無沙汰してるが…)の田中成明師(国際マンダラ協会会長、真言宗)に「空海が完成させた真言密教の神髄とは何か」と尋ねたことがある。その答えは、「仏」と自分が一体になった状態を指す「即身成仏」の思想だった。「成仏」とは、悟りを開き、輪廻しているこの世界から解脱し、涅槃の境地に入ること。
密教以前の仏教(顕教)では、人間が悟りを得たいと思って修行しても、無限大の時間がかかるとされていた。しかし、空海は「三密(さんみつ)」の修行をすれば、この世に生きている間に可能だと主張した。「三密」とは「身密(しんみつ、坐禅など)」「語密(ごみつ、読経や真言を唱える)」「意密(いみつ、瞑想)」のことである。
▽おむすびはパンになった
「子どもの頃、『南無大師遍照金剛、接待食いでー』と言いながら、歩いたよね。まだ、やってるの」と電話で、母に聞いてみた。「『大師様』のことだね。まだ、毎年、4月13、14、15日にやってるよ。旗を立てて、箱に入った『大師様』を担いで、部落から部落へリレーみたいに引き継いでいくんだ。『大師様』を引き継いだその部落の人たちは、『大師様』を担いできた別の部落の人たちにお前が子どもの頃は、おむすびをふるまって、接待したんだ」
「箱に入っている『大師様』って?」「仏像、多分、弘法大師の像のことだよ」「そもそも、『大師様』の目的はなんだったの」「さあー、弘法大師は偉い人だったから、御利益があるからじゃないの。農家は忙しくて、昔は何の楽しみもなかったら、休みが取れて、みんな『大師様』を心待ちにしていたよ。でも、今は若い人が少なくなり、老人ばかりになってしまって。歩けないから、車で『大師様』を運んでいる。おむすびもパンになっちゃった」
▽弘法大師に帰依します
母に聞いてもこれ以上のことは分からなかった。そこで故郷のお寺の住職に電話してみた。「新四国八十八ヶ所ですよ」「えっ、お遍路さんですか」「そうです。お遍路さんの地域版です。範囲は東庄町とその周辺で、江戸時代中期から始りました。『大師様』を担ぐということは『同行二人』ということ。弘法大師といつしよに巡っているという意味です。自分では回れない人が、その願いをお遍路に託すんです」
そもそも、お遍路とは四国八十八ヶ寺を巡拝することである。巡礼者は、お寺を一つ一つ詣でることで、見も心も清らかにして八十八の煩悩を取り除き、悟りを開いていく。「接待」とは
遍路道沿いの人々が、食事や金品などをあげて、巡礼者をもてなすことだ。「南無大師遍照金剛」の南無は「帰依します」という意味であり、大師は弘法大師、遍照金剛は弘法大師が授かった称号だ。
▽仏縁はどこにでも存在する
空海は62歳の時、「56億7000万年ののち、自分は必ず弥勒菩薩とともにすべての仏弟子を救うために下生(げしょう)し、わが跡を訪れるだろう」と弟子たちに、言い残して息を引き取った。弟子たちは空海を高野山奥の院に大師御廟の石室に葬った。
「それから1000年余、真言宗では、弘法大師空海はいまも入定したまま大師御廟に生きている、と固く信じられている。朝・昼2回、ご供物が進上され続けているのだ。これは弘法大師空海が、いまもその徳をもって人々を救済している…という信仰の証なのである」(「密教の本」、学研)
地域間の移動も不自由の上、交通手段も発達していなかった江戸時代、庶民にとって、実際に四国八十八ヶ寺を巡拝することは、夢のまた夢だったはず。そこで叶わぬ夢を「新四国八十八ヶ所」に託したのだろう。その宗教的行事が今なお、故郷で脈々と続いている。「大師様」と母は、電話の中でとても親しみを込めていっていた。「大師様」は、それを信じる人々と地域でも、心の中でしっかりと生きている。
私は北鎌倉への転居によって仏縁に出会ったと思っていた。しかし、今回、故郷のお遍路さんのことを知って、仏縁はどこにでも存在しているのだとしみじみ思った。ただ、それを存在たらしめるには、仏縁を意識する必要がある。最も身近な実家の宗派を知ることが、仏縁や仏教を意識する、一つのいい機会なのかもしれない。(了)
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