まかはんにゃはらみたしんぎょうー。深閑としてほの暗い円覚寺本殿に、「般若心経(はんにゃしんぎょう)」の経名を読む僧侶の声がろうろうと響く。この後に、ゆったりした木魚のリズムに合わせて「かーんじーざいぼーさ ぎょうじん……」と参加者が続く。円覚寺暁天坐禅会では、坐禅を終えた直後に、三つのお経を読む。最初が「般若心経」。次が「白隠禅師坐禅和讃(はくいんぜんじざぜんわさん)」。締めが「四弘誓願文(しぐせいがんもん)」だ。僧侶のお経を読む声には力強さに加え、張りがある。かつ優しい。耳から脳(心、あるいは精神)に何の抵抗感もなく、すーっと入ってきて、安心感のようなものを与えてくれる。ありがたいと思う。不思議だ。今回はお経について考えてみる。
▽御葬式は死者をあの世に送る得度式
普通の人間が、お経に接するのは、御葬式や法事などの時だけではないか。数年前までは、お坊さんが意味の分からないお経を長々と読むのを、足のしびれを気にしながら、「いつ終わるのやら」と我慢しながら聞いていた。無知とは恐ろしいものである。ところで御葬式の意味だが、恥ずかしいことに最近までよく知らなかった。ここで確認しておきたい。瀬戸内寂聴さんは「悲願に生きる〈最澄〉 木内堯央著、中央公論社」の中で、次のように述べている。
「仏教の御葬式というものは、死者を出家させ、得度させてあの世に送る得度式なんです。それを一般の人に納得させなければ。『戒名というのは得度したときの法名ですから、あんたたち在家は持っていないから、死んでから得度させてもらって、それで法名をいただくのよ』って言えば、『ああそうですか』って納得するんです。お坊さんがやはりそれを説明してやらねば」
▽お経は釈尊の教えをまとめたもの
お経は仏教の開祖、釈尊の教えを弟子たちがまとめたものである。人間がこの世の苦しみや迷いから抜け出すにはどうしたらいいかを説いている。仏教の分け方の一つに「小乗仏教」と「大乗仏教」がある。禅宗は「大乗仏教」に分類される。従って坐禅の時に読んでいるのは、「大乗仏教」のお経である。『大乗』の原語はサンスクリット語のマハー・ヤーナで、大きな乗り物を意味するのだという。日本や中国に伝わった。では「小乗仏教」と「大乗仏教」はどのように違うのか?
「釈尊が入滅後、仏教は非常に教理的になり、一般の人々には手のとどかないものになりました。これに対して、もっと大勢の人々を、そして自分よりも他の人々を救おう、という菩薩行を強調したのが大乗仏教の興りです。…一般の人々の側にウエイトをおいてできた仏教であるといえます。なお、スリランカやタイなど東南アジアに伝わった南方仏教を、自己の解脱のみを求め、利他の立場を欠くとして大乗仏教の人々は、小乗仏教と軽蔑して呼んでいましたが、現在では上座部仏教と呼びならわしています」(ひろ さちやの仏教なるほど百科、世界文化社)。
▽落ち着いて眠れるようになった
今回、お経について書こうと思った直接のきっかけは郷里の母の不眠だ。今年の8月、長兄の新盆で帰省した。その時、母が「夜、いろいろ考えてしまって眠れない」と私に訴えた。「眠れなくたって、命に別条はないよ」と軽く受け流した。その後、悪いことをしてしまったと思った。私は通常、寝床につくと1分以内に眠ってしまう。でも、ごく稀に寝つけないこともある。結構、その時はきつい。いつもそうなら尚更きつい。
この特集を書くために白隠禅師坐禅和讃の作者である白隠禅師のことを調べていたら、白隠禅師が延命十句観音経(えんめいじっくかんのんきよう)の功徳を人々に説かれるようになると、瀕死の病人が治ったり、絶体絶命の危機を免れたりするなど、数々の不思議なことが、このお経を信じた人々の間に起こった、ということを知った。
母は80歳。父は69歳、長兄は66歳で亡くなった。次兄は長兄より前、56歳で亡くなっている。姉は4人いるが全員健在だ。私は末っ子。母の大きな心配が、息子である私が、母より先にあの世に行くのではないか、ということに気付いた。足立大進円覚寺管長の日曜説法で「菩提(悟りを得ること)心の始りは、『観無常』の心から」と伺った。命のはかなさを知ることからスタートするという意味である。母が心配するのは、無理がない。延命十句観音経(えんめいじっくかんのんきよう)と、その簡単な解説を付けて、母に手紙を送った。暫くして、母から電話があった。「お陰で気持ちが落ち着いて、前より眠れるようになった。曾孫たちも一緒になって読んでいる」
▽延命十句観音経―42文字に観音経のエッセンスを抽出―
「延命」は、昔名医に見放された見放された重病人がこのお経を一心に繰り返したら、奇跡的に快方に向かったことから付けられたという。観音経の深い教えが、42文字に凝縮されている。
○延命十句観音経
観世音 南無仏(かんぜおん なむぶつ)
与仏有因 与仏有縁(よぶつういん よぶつうえん)
仏法僧縁 常楽我浄(ぶっぽうそうえん じょうらくがじょう)
朝念観世音 暮念観世音(ちょうねんかんぜおん ぼねんかんぜおん)
念念従心起 念念不離心 (ねんねんじゅうしんき ねんねんふりしん)
【訳】(田中成明・国際マンダラ協会長)
観世音菩薩に帰依します。私たちは自分の心に仏(観世音)となるべき素質を持っています。(その因があるから)観世音とのご縁で私の仏性が開顕されます。常(悟りは永遠に変わらない)、楽(苦しみがない)、我(自由で他に拘束されない)、浄(煩悩がつきて汚れがない)と仏様にはこの四つの徳が備わっています。朝に観世音を念じ、暮に観世音を念じ、一心に、誠心誠意、唱えねばなりません。その一声が常楽我浄の姿であり、観音様の大精神であることを忘れてはなりません。
*観世音菩薩(かんぜおんぼさつ) 観音様と親しまれている。観自在菩薩は、「西遊記」の主人公として有名な玄じょう三蔵の新訳。観世音菩薩はそれ以前の旧訳(くやく)。あらゆる衆生(生き物)を自在に救済することから、日本だけでなくアジア各地で多大な信仰を集めている。
▽寂しさの中に春の如き光を放つもの
最近、お経について触れたすばらしい文章に巡り会った。「…新潟に良寛の絵ばかりを描いていたこしの干涯という画家がいました。わたしはこの人の画室の入口にかかげていたという次の言葉が好きで、事あるごとに書いては、自分の生き方をかえりみています。それは次の言葉です。『お念仏は人間が何かを求める声と知るべし。されど、その答えなし。寂しきものなり。しかれどもその寂しさに徹した時、心の中にその答えをきくものなり。これを妙というほかなし。かくのごとき境地に至る人の相貌(ぼう)は、春に咲く紅椿の如く寂しさの中に春の如き光を放つものなり』…こしの干涯の良寛の姿は童画のなかから出てきた子どものようで、とても他の人には描けない良寛です」(「やさしいお経の話」小島寅雄著、文芸春秋)
良寛は江戸後期の曹洞宗の禅僧で、「生前、説教はせず、寺も持たず、著書も残さなかった。だが、その存在からにじみでるような徳望の高さの点では、屈指の存在だった」(禅の本、学研)。小島寅雄さんは、ひろく良寛の遺徳を顕彰する事を目的とし、会の趣旨に賛同する団体及び個人を会員として組織している全国良寛会の前会長。昨年亡くなられた。随筆家・仏画家で、「いま
良寛」と親しまれ、鎌倉市長も務められた。私が設立に参加したナショナル・トラスト団体「北鎌倉の景観を後世に伝える基金」の初代監事をしていただいた。合掌。
▽2004年も特集を中心に北鎌倉情報を発信
2003年も間もなく、暮れていきます。北鎌倉湧水ネットワークへのアクセス、ありがとうございました。大晦日は連年通り、円覚寺で除夜の鐘をつかせてもらう予定です。2004年の元旦は、晴れていれば自宅裏の六国見山に登って、初日の出を拝みたいと思っています。2004年も特集(北鎌倉マンション問題、現代に生きる禅の精神)を中心に
北鎌倉情報を発信します。2004年のコンテンツのトップバッターには「北鎌倉の景観に関する石渡徳一鎌倉市長への要望」を予定しています。良いお年をお迎えください。
【参考】
○摩訶般若波羅蜜多心経(般若心経)―262文字に込められた大乗仏教のエッセンス―
「まか」は大きく優れている、「はんにや」は智慧、「はらみた」は到彼岸、「心経」は中心となるお経という意味。「『真実の智慧の究極』という意味…内容は『くう』つまり『こだわらないこと』の思想を簡明に述べたもので…大いなる智慧の完成こそが『空』を悟る道であり、それが彼岸への道であることを教えているのです」(「ひろ さちやの仏教なるほど百科」、世界文化社)。
大乗仏教のエッセンスが凝縮されているといわれる般若心経は、日本の各宗派で熱心に読まれている。しかし、浄土宗と浄土真宗では読まない。浄土教では往生に必要なのは「南無阿弥陀仏」の念仏を唱えるだけで十分であり、密教とか坐禅は不必要と考えているためだ。
▽摩訶般若波羅蜜多心経(まかはんにゃはらみたしんぎょう)
観自在菩薩(かんじざいぼさ) 行深般若波羅蜜多時(ぎょうじんはんにゃはらみたじ)
照見五蘊皆空(しょうけんごおんかいくう) 度一切苦厄(どいっさいくやく)
舎利子(しゃりし ) 色不異空(しきふいくう) 空不異色(くうふいしき)
色即是空(しきそくぜくう) 空即是色(くうそくぜしき)
受想行識(じゅそうぎょうしき) 亦復如是(やくぶにょぜ)
舎利子(しゃりし) 是諸法空相(ぜしょほうくうそう)
不生不滅不垢不浄(ふしょうふめつふくふじょう) 不増不減(ふぞうふげん)
是故空中(ぜこくうちゅう) 無色無受想行識(むしきむじゅそうぎょうしき)
無眼耳鼻舌身意(むげんにびぜっしんに) 無色声香味触法(むしきしょうこうみそくほう)
無眼界乃至無意識界(むげんかいないしむいしきかい)
無無明亦無無明尽(むむみょうやくむむみょうじん)
乃至無老死(ないしむろうし) 亦無老死尽(やくむろうしじん)
無苦集滅道(むくしゅうめつどう) 無智亦無得(むちやくむとく)
以無所得故菩提薩捶(いむしょとくこぼだいさった)
依般若波羅蜜多故(えはんにゃはらみったこ) 心無罫凝(しんむけいげ)
無罫凝故(むけいげこ) 無有恐怖(むうくふ)
遠離一切顛倒夢想(おんりいっさいてんどうむそう) 究境涅槃(くぎょうねはん)
三世諸仏(さんぜしょぶつ) 依般若波羅蜜多故(えはんにゃはらみたこ)
得阿辱多羅三貌三菩提(とくあのくたらさんみゃくさんぼだい)
故知般若波羅蜜多(こちはんにゃはらみた) 是大神呪(ぜだいじんしゅ)
是大明呪(ぜだいみょうしゅ) 是無上呪(ぜむじょうしゅ)
是無等々呪(ぜむとうどうしゅ) 能除一切苦(のうじょいっさいく)
真実不虚(しんじつふこ) 故説般若波羅蜜多呪(こせつはんにゃはらみたしゅ)
即説呪曰(そくせつしゅうわつ) 羯諦 羯諦(ぎゃていぎゃてい)
波羅羯諦(はらぎゃてい) 波羅僧羯諦(はらそぎゃてい)
菩提薩婆訶(ぼじそわか) 般若心経(はんにゃしんぎょう)
○白隠禅師坐禅和讃―坐禅の功徳をコンパクトにまとめる―
臨済宗中興の祖といわれている白隠禅師が、坐禅の功徳をコンパクトにまとめた。和讃は、日本で、日本人の僧によってつくられたお経である。一般的にお経は漢文で書かれ、意味も分かりにくいが、この点を克服し耳で聞いても分かりやすくしてある。
▽白隠禅師坐禅和讃
衆生本来仏なり 水と氷の如くにて
水を離れて氷なく 衆生の外に仏なし
衆生近きを知らずして 遠く求むるはかなさよ
譬えば水の中に居て 渇を叫ぶが如くなり
長者の家の子となりて 貧里に迷うに異ならず
六趣輪廻の因縁は 己が愚痴の闇路なり
闇路に闇路を踏みそえて いつか生死を離るべき
夫れ摩訶衍の禅定は 称嘆するに余りあり
布施や持戒の諸波羅蜜 念仏懺悔修行等
その品多き諸善行 皆この中に帰するなり
一坐の功を成す人も 積みし無量の罪ほろぶ
悪趣何処にありぬべき 浄土即ち遠からず
辱くもこの法を 一たび耳に触るるとき
讃嘆随喜する人は 福を得ること限りなし
況や自ら廻向して 直に自性を証すれば
自性即ち無性にて 已に戯論(けろん)を離れたり
因果一如の門ひらけ 無二無三の道直し
無相の相を相として 往くも帰るも余所ならず
無念の念を念として 歌うも舞うも法の声
三昧無礙の空ひろく 四智円明の月さえん
この時何をか求むべき 寂滅現前する故に
当処即ち蓮華国 この身即ち仏なり
(「白隠禅師『坐禅和讃』禅話」柴山全慶、春秋社)
*六趣輪廻(地獄、餓鬼、畜生、修羅、人間、天の六つの迷いの世界を繰り返すこと)
*因縁(『因』とは結果を生む直接的な原因、『縁』は『因』を助けて、結果を生む間接的な原因)
*浄土(仏の住む清らかな世界、阿弥陀仏の住むという極楽浄土だけでなく、それぞれの仏が浄土を持っている。例えば薬師仏の住む東方浄瑠璃世界など)
○四弘誓願文―修行を始める際に立てる四つの誓い―
大乗仏教では、悟りを求める人や求道者を菩薩といい、菩薩は修行を始めるに当たって、四つの誓いを立てる。それが四弘誓願文だ。四弘誓願文の内容は次の通りだ。「」内は意味で、「ひろ さちやの仏教なるほど百科」(世界文化社)に従っている。
▽四弘誓願文
衆生無辺誓願度(しゅじょうむへんせいがんど)「生きとし生けるものを救うことを願う」
煩悩無尽誓願断(ぼんのうむじんせいがんだん)「すべての煩悩を断つことを願う」
法門無量誓願学(ほうもんむりょうせいがんがく)「仏の教えをすべて学ぶことを願う」
仏道無上誓願成(ぶつどうむじょうせいがんじょう)「無上の悟りを得ることを願う」
(了)