9・11ニューヨークは今―2002年9月11日記―
                        平 尾光司・専修大学経済学部教授

  8月7日東京からの直行便でケネデイ空港に降りたった。マンハッタンへの高速道
路で見慣れた光景をなつかしく眺めながら近づいてくるスカイラインに世界貿易セン
タービル(WTC)が見えないのに気づく。

▽広がる大きな空虚
 ニューヨークに勤務した10年間でいつも出張から戻りWTCの姿が目に入るとニ
ューヨークに帰ってきたという懐かしくまたほっとした気分に浸ったものである。ミ
ッドタウンのエンパイヤステートビルからひときわ高い南端WTCまで摩天楼と称さ
れる高層ビルの連なりはニューヨークにしかないもっとも現代的な都市景観であった
。その空間が変形し大きな空虚がひろがっていた。9・11が変えたニューヨークの
すがたを突きつけられた感じがした。

 一年前の9月12日、シルクロードの旅で敦煌にいた。早朝にホテルからツアーバ
スに乗り込むと中国人のガイドが緊張した面持ちで「昨日、アメリカで大事件がおこ
りました。貿易センタービルに飛行機が激突、ペンタゴンも攻撃されてさらにもう一
機の旅客機を空軍機が追跡中です。これは私のワシントンにいる友人が携帯電話で知
らせてくれたものです。」と報告してくれた。

 信じられないニュースに車内は騒然となった。ツアーのメンバーにはWTCやその
周辺に勤務先のオフイスがあったり私を含めてアメリカに家族のいる方もいた。その
日、玉門関など遺跡を心もそぞろに観光してホテルにもどり部屋のテレビをみた。
 
 敦煌では中国国営テレビの中国語の放送しか受信できなかった。飛行機のWTCへ
の激突する静止画面をくりかえし放映するだけで中国語の解説もわからずもどかしい
おもいだった。ボストンに住む次女に電話をしても不通になっており日本にもつなが
らなくなった。

 そのときにゴビ砂漠をバスで走っているときに高速道路に沿い500メートルぐら
いの間隔で白い杭が打たれていたのでガイドに聞くと光フアイバ−の埋設の目印と答
えたことを思い出した。敦煌でもインターネットが使えるのではないかと考えついた

 同行のインターネットに強いA氏がホテルの事務室からアメリカのヤフ−にアクセ
スしてそのうちに日本のヤフーにもつながり情報が入りWTCの崩落と被害のすさま
じさとニューヨークの混乱が伝わってきた。知人、友人、またかっての同僚の身の上
をおもいを馳せた。

▽天安門事件の当時のある経験 
 同時に14年まえの天安門事件の当時のある経験をおもいだしていた。事件の当日
、ニューヨークの我が家には明日,北京に向かう中国人の画家が滞在していた。緊迫
がたかまっている北京の状況をCNNでみていると天安門どうりに戦車を先頭に軍が突
入して画面を最後に現場中継が消えた。

 北京、上海、南京と国際電話をかけると次々と回線が閉鎖されていき中国へのアク
セスが断たれた。現在ではインターネット、携帯電話で共産党政権による情報封鎖は
技術的に難しくなっているのではないか?これが今後、中国を経済の自由化から社会
の自由化に向かわせるためのインフラになるのではないかと考えていた。

 と同時に敦煌、新疆に多い中国モスレム(回族と通称される)の動向も気にかかっ
た。新疆はアフガニスタンに国境を接しておりモスレムによるテロが頻発していると
読んだことがある。また中国がこの同時多発テロに対してどのような態度をとるか湾
岸戦争への対応から気にかかったが翌日に江沢民主席がテロは世界共通の敵であると
声明を発表したので安心したがそこには国内にイスラム原理主義の浸透への懸念も感
じられた。

▽姿消したニューヨーク名物
 マンハッタンに入ると街のたたずまいや人の流れは変わらないが交差点横断でニュ
ーヨーク名物のJ-WALK−『斜め横断』が姿を消していた。事件いらい警察がきびしく
なったようである。心なしか日常性のなかに前になかった緊張感があるように感じた

 ホテルにチェックインしてすぐに地下鉄でWTCに向かった。Wallsreetの駅で降
り,いまはGround Zero(爆心地)と呼ばれているWTC跡地に向かう。駅から人の流
れがつづいており一見、観光地のようであるが現場に近づくと高くはりめぐされた金
網と塀がせまってくる。

 私の勤務していたビルOne Liberty PlazaはWTCから通りをはさんで200メートル
はなれていたが損傷をうけて補強工事中であった。外観は変わらず保っていたが爆風
でWTCに面したガラス窓は破砕したようでありまだ入居は下層階に限られていた。

 WTCの塀には跡地の状況が見えるように覗き穴が作られてあり人がむらがってい
たが全体はみえず高さ5メートルほどのObsevation Deck『展望台』まで上がってみ
てようやく全貌がみえた。15万トンといわれた瓦礫の山は除去されて地下駐車場も
撤去されて深く掘り下げられていてその底で小さく見えるダンプカーやブルドーザー
が整地のためか動き回っていた。

 地層がみえるまで掘られたオープンスペースはかってみた石炭の露天掘りの光景を
思わせた。この地面の上に114階の超高層ビルが2棟聳えていた姿をWTCを見た
ことがない人には想像できないであろうがその建設当時からみていた自分にはあの2
棟のビルが消えてしまったことも超現実の出来事のようにおもえる。

▽晴れた日にはニューヨーク港が
 Observation Deckを降りてそのまわりのビルをめぐって歩き回り、WTCの思い出
をたどった。それはまた私のニューヨークの思い出でもあった。WTCの建設計画が
発表されたのは35年前の留学当時であった。いまもTime誌に紹介された完成予定図
とその設計者が日系アメリカ人のMinoru Yamazaki氏であるとの解説記事を覚えてい
る。

 また当時、ニューヨークに駐在していた日本の鉄鋼会社の友人からWTCの建設用の
高張力鋼材は日本の八幡、富士(合併前)の両社しか生産できず独占的に供給すると
聞いた。日本の産業の競争力向上、高度成長のシンボル的な輸出になったといえる。

 WTCは貿易センタービルの名前どうりに当初は商社、海運、保険などのオフイス
が多かったが80年代に入ニューヨークの金融センターとして拡大、発展するととも
に日本の金融機関の進出ラッシュもあり金融ビルに変わった。周りに建設されたWorl
d Financialセンタービルとあわせて世界の金融センターとなった。

 しかし、1993年のWTCの地下駐車場爆破テロと日本の金融パワーの衰退と共
に日本の金融機関の撤退や移転がはじまり、そのあとに欧米の金融機関とくにデリヴ
ァテブやヘッジファンドの専門会社の入居がめだった。9・11日で最大の犠牲者を
出したFitz Kanter社はその例である。WTCの30年の歴史はそのままニューヨー
クのたどった変化でもありまたアメリカにおける日本のPRESENCEの変遷を証しでもあ
ったといえるようにおもえる。

 私もここでビジネス打ち合わせ、大きな融資契約の調印式、朝食会、昼食会、夕食
会などさまざまな機会があり時には一日に数回WTCに行くことがあった。仕事以外
でもWTCはそれ自身が一つの街であり本屋、ギフトショップ、レストランなど買い
物、食事の場でもあった。

 特に最上階のレストラン−Windows of Worldは晴れた日にはニューヨーク港、ハド
ソン河から遠くキャッツキルの山なみまで見晴るかし、雨の日には下から雲や霧が立
ち昇ってきた。このレストランのワインセラーはニューヨークでも指折りといわれワ
イン教室も開かれていた。3000名の犠牲者の方に対して不謹慎ながら何万本とい
うワインの壜がくずれる様子を想像したりもした。

▽不条理な行動への恐怖
 WTCのまわりには人の流れが絶えない。みな沈痛な面持ちで跡地をながめている
。ニューヨークの写真家グループ「マグナム」が出版した9・11写真集におさめら
れた記録写真がとらえた倒壊、粉塵、煙の中を逃げる人々の表情を現場で思い起こし
て人々を襲った恐怖、混乱がどんなものであったか想像してみる。眩しい夏の日差し
のなかに座って犠牲者や家族のかたの無念さを思う。

 どうしてこのような犠牲が必要なのか。いまも残る尋ね人の掲示板に貼られてある
若い人の写真や犠牲者へのメッセージを読むとテロへの怒りとともに理解をこえるテ
ロリストの不条理な行動への恐怖が湧いてくる。

 そのあとWall街にまわり証券取引所とJP・Morganの旧本店のある1番地にいく。そ
の前の週にニューヨークダウが暴落していた。第2のテロとよばれるエンロン、ワー
ルドコムの不正経理事件でアメリカの経済は揺らぎを見せていた。証券取引所はその
象徴でありJP・Morganもエンロンの主要銀行として深くかかわっている。

 警備はWTCよりきびしくパトカーが何台も取引所を取り巻いていた。取引終了後
で人気のない取引所の外壁面い
っぱいに星条旗がかかっていた。そういえばいたるところに星条旗がみられた。もと
もと国旗が好きな国民であるが我々の目には少し過剰にみえるほどである。テロの不
安の中でアメリカへの帰属感が救いであり一体感、愛国心の表明の機会を求めている
のだろうか。

 ボストンでタクシーに乗ると運転手がインドのシーク教徒で立派なひげとターバン
姿でフロントガラスに星条旗を貼り付けあった。聞くと「アメリカ人にはアラブもイ
ンド人も見分けがつかないのでお守りに貼ってあるという。」 星条旗にこういう役
割もあるようだ。

 友人、知人はそれぞれに当時の模様、体験を語ってくれたがそれぞれ伝えきれない
気持ちがありまたあまり話したくない感じもうけた。そのなかでWTC近くに住む日
本人画家小西雪村さんの奥さんの話は衝撃的であった。自宅の窓からWTCの高層階
から人々が次々と飛び降りるのを目撃したという。

 小西さんは当時、日本にきておりニューヨークに戻り奥さんの話をもとに崩壊する
WTCのイメージした大作を描いていた。その抽象画に目をこらすとWTCに巻きつく
巨大な龍らしいオブジェが見える気がした。健康を害しながら何とかこの画を完成さ
えせたいと語っていた。

▽NYがUSAが大きく変わり世界も変わった
 ニューヨークは第2のテロ攻撃の危険に対してピリピリしていることが感じられた
。中央駅−Grand Central Stationもテロ攻撃の目標といわれており、私がその中に
出来た日本のデパ地下のようなグルメショップを見物して歩いたことを話したらアメ
リカの友人から駅では少しでも早く電車に乗り込むように注意された。そういわれて
みるとコンコースをみな足早に通りぬけている気がした。

 空港のチェックもきびしくなり靴の底まで検査されスーツケースをもった乗客は特
別な場所でチェックされいくつかの質問をうける。その質問は8年前にイスラエルの
テルアヴィブ空港でうけた質問で同じであることを思い出しアメリカもイスラエルな
みになったのかと実感した。

 もっともこの質問は無意味として近く廃止されるらしい。日本人は質問を理解する
のに緊張してyes, noを反対に答えてしまう。この結果、飛行機旅行がリスクと所要
時間からとくにビジネス出張者から忌避されている。多発テロ以前には出張の自動車
、飛行機の分岐点は自動車で3時間であったものが5時間をこえているようで乗客が
激減して滞在中に中距離中心のUSAIRWAYSが会社更生法を申請してUnited Airlineも
時間の問題とされていた。

 これも9・11の大きな影響であろう。イラクに対する攻撃には私の会ったアメリ
カ人はみな反対であったが世論調査で半分に近い支持率があるのはこのような緊張感
からもきているのではないかと感じた。

 この1年間でニューヨークがアメリカが大きくかわり世界も変わったといわれる。
WTCの姿はニューヨークのどこにいても目に入り高層ビル街で方向感を失ってもそ
の姿をみれば自分に位置がすぐわかった。これからは太陽がたよりであり夜になれば
地図を読まなければない。たしかに世界は変わった。(了)

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