北鎌倉の安倍晴明伝説 著述業・岡田寿彦 |
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これより先、10月6日の項には「民屋をもつて御宿館に定めらる」とあり、その3日後に「御亭の作事」、すなわち、頼朝の住居の建設工事が始まったわけだが、その完成には時間がかかる。そこで、「兼道」という名の「知家事」が住んでいた「山内の宅」を移築して、頼朝の当座の住居にしたというのである。「知家事」とは、有力な家の内部の事務を処理する役目らしい。兼道はこの地を領有していた有力者の家来だったのだろう。 この兼道の「山内の宅」は、「正暦年中」(西暦990〜995年)に建立されてから200年近くの間、「回祿の災」つまり火災に遭うことがなかった(「回祿」は火の神の名)。それは「晴明朝臣」がこの家に「鎮宅の符」、すなわち、家屋を災厄から防ぐ護符を押した(お札をつくって貼った、というほどの意味か)からだ、と『吾妻鏡』には書かれている。 ここに現れる「晴明朝臣」とは、ほかでもない、このところ小説・漫画・テレビドラマ・映画と、様々なジャンルの作品に主人公として登場し、若者の人気を集めている、平安時代中期の陰陽道の大家・安倍晴明その人である。 高原豊明氏は論文「相模の晴明伝説」(『晴明伝説と吉備の陰陽師』に収録)で、はじめに紹介した『吾妻鏡』の記述を「関東の晴明伝説の端緒」としているが、『吾妻鏡』の記述自体は伝説を紹介する書き方ではなく、「晴明朝臣、鎮宅の符を押すが故なり」と、晴明の北鎌倉来訪を事実として伝える書き方になっている。もとの漢文表記では「晴明朝臣押鎮宅之符之故也」というのだから、「押す」のは「晴明朝臣」であり、「押す」当人は現地に来ていなければならないことになる。 これに対して、江戸時代に刊行された『北条九代記』は、この『吾妻鏡』の記事を下敷きにしながら、「安倍晴明鎮宅の符をおしけるをもつて、つひに回祿(くわいろく)の災(わざはひ)なしとかや」と、伝聞を伝える書き方をしており、『吾妻鏡』では事実とされた事柄が『北条九代記』では伝説になっていることがわかる。 ところで、問題の「山内の宅」というのは、どのあたりにあったのだろうか。奥富敬之氏の『鎌倉歴史散歩』には、次のように述べられている。 北鎌倉駅から建長寺に向かってJR横須賀線の踏切りを渡った右手に、かつて安倍晴明の館があったと伝えられている。知家事兼道の館も、その近辺にあったのかも知れない。 この興味深い伝説を奥富氏がどのようにして知られたのか、お尋ねしたいと思いながら、まだ果たしていない。 ところで、この伝説が事実である可能性は、まったくないのだろうか。 諏訪春雄『安倍晴明伝説』(ちくま新書)によれば、『土御門家記録』や『安倍氏系図』には晴明が寛弘2(1005)年9月26日に85歳で死んだと記されているという。これから逆算すると、彼の生年は延喜21(921年)になる。また、信頼できる文献史料に晴明がはじめて登場するのは、天徳4(960)年、天文得業生(陰陽寮で天文を学ぶ学生の中の成績優秀者)としてであるという。この時点で彼はすでに40歳だ。 問題の「山内の宅」が建てられたという「正暦年中」は、晴明の70歳から75歳にかけての時期に当たり、高齢の晴明が関東の田舎家に「鎮宅の符を押す」ためにわざわざ出向いたとは考えにくいが、その可能性をまったく否定し去ることはできないだろう。 40歳になるまで歴史の表舞台に現れてこない安倍晴明は、若いころ、どこで何をしていたのか。 平将門の乱が始まったのは、晴明が15歳になった承平5(935)年のことである。京都の朝廷に対抗する武士の政権を関東の地に樹立した将門は、天慶3(940年)、矢に当たって死ぬが、晴明がこの大乱に無関心であったとは思われない。 将門の乱への関心もあって晴明が青年時代に関東地方を歩き回っていたとしたら、そして、そのときの縁で、「正暦年中」に建てられた「山内の宅」に「鎮宅の符を押す」ことを頼まれたとしたら……。 〜〜〜〜***〜〜〜 (この文章は『きたかまくらぶ』第2号に発表した「安倍晴明は北鎌倉に来たか?」をもとにしています。)
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