「木文化再生友の会」設立宣言―樹を植える、切る、使う、植える―
牛嶋保夫・工房「杢」代表

 私も樹を植えたい、それは木工屋をやっていて、随分と樹を切って生活の糧にしてきた。だから、せいぜい使った分の何分の一かでも樹を植えたい。しかし、樹を植えたいという気持ちは、どうも木工屋で樹を使っているからということだけではなさそうだ。もう少し、自分の中でも違った想いがあるように思う。とても一口では言い切れない。

 そして私以外の人の中にも、このような「樹を植えたい」という想いがあるのでは
ないか。今回、私の呼びかけに予想以上に皆さんが賛同して下さったのも、そんなことがあるかもしれない。もう一つ、以前から人との、共生と云おうか、共存と云おうか、それがこれからの将来の行く末の鍵を握っているのではないか、という漠たる予感。

 小さな木工屋をやっているけど、何故、こんなにも若い人が木工をやりたいのか。これも不思議です。例えば昨年、一人だけ募集をしたところ、二十五人もの応募があった。いずれも実に真面目な若者たちでした。樹が好きだ、ということでは全員が持っている感情のようでした。

 不遜な考えではありますが、「こいつらを、なんとか出来ないものか」という想い
にも駆られます。この若者たちは殆どは希望通りの職にありつけないのが現状です。

 またまた唐突ですが、新しい車を一台、買ったならば、樹を一本植える。そんなことが出来ないか、こんなことが呼び掛けられないか。車は実に快適。しかし一方で、どんなに優れた新車であっても、「超低排出ガス」車であっても、CO2の排出を止めることは出来ない。それならば、樹を一本植えることで少しでもCO2を吸収する樹の助けを借りることは出来ないか。

 さらに、植えた樹を、自分の暮らしに使用することは出来ないか。だから、樹を植えたい、という想い。そして、樹を自分の暮らしの中に取り入れたいというのが、同時にあります。つまり、「植える」ということと、「使う」ということが。

 ここで現状が出てしまうけれども、日本の森林、特に針葉樹林は一部を除いて超低価格の状態が続いている。輸入材に完全に押されている。私も新築の住宅を見る機会があるが、その殆どが輸入材。戦後の復興のために、猛烈に植えられた檜や杉や松は、その役割を果たすことなく放置されているのが現状。

 間伐材の有効利用への試みが行われ始めている。この針葉樹林帯は、やはり人が手を入れない限り、荒れてしまう。―――植える、切る、使う、植える。この循環を持続させるためにも、国産材の利用は、どうしても必要。

 この会で、私が皆さんと改めて考え、意見を交換したい一つは地産地消です。佐川さんは、もう既にこうした考えを持って、岩手県柴波町に素晴らしい成果をあげておられます。

 先に挙げたように、切る、使う、植える、そして植える。ともすると自然環境など
を考えて、植えることは良いが、切ることは悪いことである、という認識が持たれる
ことがある。しかし、針葉樹林は帯は人工林であるため、この循環を欠かすことは出来ない。したがって、もう少し、切る、使う、植えるという循環システムを世間に理解してもらう努力が必要なのではないか。勿論、野口さんがやられているような鎌倉の自然と風土を守る運動とは、はっきりと区別しなければならない。

 煎じ詰めれば、私の稚拙な主張は日本の国土で育った樹を暮らしに生かし、そのことによって林業活動を活発にし、同時に植林運動をも一層、押し進めたいことに尽きるのだと思います。今回、これだけのメンバーが参集していただけそうなので、まずは現在のお仕事を紹介しつつ、楽しく懇談できたらと思っています。

 さて、それから何をするか、この「若者会」(注)で充分よく揉んで先輩諸氏に提案していきたいです。どうでしょうか。例えば、講師では学校に樹を植え続けた校長先生の山之内義一郎さんや、滅びつつある日本の木造住宅建設の職人養成をしておられる〜さんを考えています。

 出入り自由、商売自由、老若男女。面白い方々がいたら是非、お呼び下さい。

2004年2月18日  
文責 牛嶋保夫

(注)2月18日、「木文化再生友の会」メンバーでは若手(?)の牛嶋、佐川、栗山氏と野口が、牛嶋さんの提案を受け、3月19日のメンバー全員の初顔合わせに先立ち、意見交換をした。

□木文化再生友の会の目的
 1 地球温暖化問題に対し、二酸化炭素吸収を積極的にすすめる一助としての運動を目指す。

 2 そのために、日本の国産材の積極活用と、植林運動の展開。

 3 日本国度の87%が森林帯であり、その国土、文化を再認識し、またその活用をさぐる。

*蘇る水俣病取材の記憶―木文化再生友の会初顔合わせから―

 平成16年3月19日(金)、工房杢ギャラリー(神奈川県三浦郡葉山町上山口2559-4)で、「木文化再生友の会」メンバーの初顔合わせ(出席者14人、欠席者4人)が行われた。最初に呼びかけ人の牛嶋代表が挨拶し、メンバーがそれぞれ自己紹介。続いて最首悟・恵泉大学・和光大学教授(第2次水俣病調査団団長)が「環境・水俣・人」、筒井信之創建社長が「森林コモンズ」というテーマでお話をし、建築家の佐川旭氏が今後の活動について提案した。その後は懇談に移り、近くの佐島漁港直送の新鮮な魚の刺身に舌鼓をうちながら、美味しく酒をいただいた。
 この日集まったのは「精緻ではないが何か味があって、気が入っている」と筒井信之創建社長が、いみじくも指摘した牛嶋代表とその「生徒たち」の「作品」のファンである。作家で親鸞研究家の高 史明(コ サミョン)さんのお姿もあった。最首教授と高さんはかつて対談をされたことがあるとか。いつかお二人のお話をじっくりと聞きたいと思っている。ともあれ、全員、樹が好きだ。多士済々である。命を育む日本の森は今、危機的な状況にある。この日の出会いをきっかけに、きっと何かが生まれるだろう。いや、生み出さなくてはいけないと思う。
 私個人としては、最首教授とは不思議な巡り合わせを感じた。実は3月28日(日)にNPO法人自然塾丹沢ドン会が主催するシンポジウムで、私は基調講演を依頼されており、「団塊世代よ、帰りなん、いざ故郷へ!―食の安全と地域再生のイメージ―」というテーマで話すことになっていて、水俣病についても触れるつもりでいたからだ。私は自己紹介で次のように述べた。
 …団塊の世代にとって、程度の差はあっても、学生時代に向き合わざるを得なかった大きな問題は「ベトナム戦争」であり、「公害問題」ではなかったかと思う。私は昭和47年に共同通信社に入社した。最初の赴任地が福岡支社で、年が明けた48年、お隣の熊本県で、公害の原点といわれる「水俣病裁判」があったため、臨時駐在の形で長期にわたって応援取材に駆り出された。水俣病は「水域に排出された物質が、食物連鎖及び水中からの直接吸収によって、水中生物に生体濃縮され、その水中生物を摂食したヒトに疾患を発生させた、世界で初の事例である」と最首教授が指摘されてい
るように、魚介類を介して発生するメチル水銀中毒症だ。私は水俣市の患者の家族や弁護団を中心に取材をしたが、当時のことは今も鮮明に覚えている。ある患者のお宅を取材した時のことだ。こたつの中で、一人の少女が体をゆすりながら、ただにこにこ笑っていた。彼女の外部に示す反応はこれがほぼ全て。てっきり、小学生かなと思って、「小学生ですか」と両親に尋ねたら、「既に17歳になっている。もう、生理だってあるんだよ」との答えだった。頭をハンマーでがつんとやられたようなショックを受けた。「不条理」という言葉と白っぽいチッソの工場付近と青い海、そしてあの少女の笑顔が何かの拍子にセットになって頭の中に蘇ってくる…
 

 

牛嶋保夫・工房「杢」代表
http://www.kobo-moku.com/

*牛嶋保夫氏の仕事の内容について知りたい方は下記のサイトにアクセスして下さい。
▽工房「杢(もく)」―「木に魅せられた二人の男」との再会2―
http://member.nifty.ne.jp/Kitakama/shop/1.html
▽男の原風景「いまどきの教師」
http://www.salaryman-style.com/BN/huukeiBN29.html

設立の趣旨説明をする
牛嶋保夫代表
水俣病について話す
最首悟教授
「森林コモンズ」の説明をする
筒井信之創建社長
今後の活動を提案する
建築家の佐川旭氏
 
 

 

 

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