医療制度改革論議の盲点
     ―新聞、政治家、財界、経済学者の役割を問う―


                       有料老人ホーム「グリーン東京」社長 滝上 宗次郎


▽本質はどこまでも地場産業
 アメリカでは、多数派ではないが株式会社の病院が実際に存在する。
 医療に株式会社とは不似合いだが、その存立条件を求めれば二つあると思う。第一に、アメリカでは客を、すなわち裕福な患者を選べることである。民間保険の種類で選んでいる。日本において、株式会社の参入を求める御用学者や全国紙(共同を除く)の社説は、何故かこの大問題を棚に上げており、説明責任を果たしていない。それどころか主張は逆で、「客がいい病院を選ぶ」のだから株式会社の参入によって競争の促進を、という身勝手なものである。論旨が間違っているばかりか、人の道を外れている。

 東京を除けば、医療とは地場産業である。現に地方にいくと総合病院は地域に一つしかない。二つあれば、それこそ本物の「競争」が始まり片方が潰れてしまう。だから、独占が始まる。株式会社の病院が地域医療の中核を独占して、果たしていいのだろうか。そこでは、どういう病診連携が作り出されるのか。そこでの外来とはどういうものなのか。

 医療とは、実に深いものだ。それに比して、国や社説は、あまりに稚拙だ。医療特区での株式会社に賛成であるならば、先ず「あるべき地域医療」とはどのようなものか、青写真を示すべきだろう。

▽医療過疎の長野県
 第二の存立条件は上述したことと似ているが、日本の医療を荒廃させて地獄の沙汰も金次第にすることである。

 アメリカのように無保険の国民が3千万人を超えるような状態を作り出せば、株式会社の病院の存立基盤は確立する。高齢化や技術進歩によって、医療費が伸びるのは当然のことだ。それを強く抑制していけば、日本の医療は荒廃してしまう。医療に空白が生じれば、保険外負担や混合診療を容易にできる環境が成立していく。厚生労働
省は株式会社の病院に反対と口では言うが、今の医療行政はその悪しき株式会社化の方向に突っ走っている。

 そうした医療の将来を見越してか、医療特区で株式会社を行うという自治体が現れた。それはやはり、医療過疎である長野県であった。長野県の人口当たりベッド数は全国平均よりもはるかに低い。要介護となったら入院治療を受けずに在宅死を、というPPK(ピンピンコロリ)がお年寄りに吹聴されているところである。
 知事が主張する、信州大学の医局と戦うことと、株式会社を参入させて県民益を踏みにじることとは、どう両立するのだろうか。まことに悲惨な実験だ。

 また、株式会社化が日本で進むとすれば、先ずは減少が著しい小児科であろう。子は宝であるから、親は大金をおしまない。それを見て、若い夫婦は子供を減らしたり、あきらめてしまうだろう。少子化をストップするのが内政の緊急にして最大の課題というが、やっていることはまるで逆である。

▽「企業」を嫌ったアメリカ
 医療の世界は、株式会社の概念はとても希薄だ。今でこそ「病院経営」というが、昔は「病院管理」と言った。訪問看護ステーションという独立体が普遍化した今でも、看護の世界は「管理」である。ちなみに医学書院の月刊誌『看護管理』の英訳は、その表紙に「ナーシング・アドミニストレーション」と記されている。企業経営を指す「マネジメント」ではないのである。

 そうした呼称は極めて日本的だ、だから日本の医療はだめなのだ、とアメリカかぶれの日本の財界や経済学者は批判することだろう。しかしながら、本家本元のアメリカでも医療はアドミニストレーションなのである。

 日本の財界が経営の神様と称賛してきたピーター・ドラッカーは、その著書『マネジメント、基本と原則』(ダイヤモンド社)で次のように語っている。・・・病院のマネジメントも、企業のマネジメントと区別するためにホスピタル・アドミニスト
レーション(病院管理)と称した。大恐慌時代には、マネジメントを称さないことが政治的に正しかった。

 つまり、20世紀初頭からモータリーゼーションが進み繁栄を誇ったアメリカ経済は、1929年にニューヨークのウォール街で株価が大暴落する。若きドラッカーもまた證券会社の職を失う。未曾有の大恐慌は世界へと波及していった。恐慌は日本やドイツを軍国へと向かわせた。アメリカでは大恐慌のなかで、株式会社に対する嫌悪感が強く現れ、医療は「経営」を捨て「管理」を選択したのである。第二次大戦の後も長くアメリカの医療はアドミニストレーションであった。

▽不況対策は「道路」ではなく「福祉」
 このように日本人は、医療に対しての誤解が甚だしい。誰が何を言おうが勝手という側面もあるが、全国紙の医療ジャーナリストが不勉強でありすぎ、おかしな紙面を平気で作り上げるからである。
 不勉強なのは、医療ジャーナリストだけではない。日本の医療を批判している経済学者もそうだ。もう一つおかしな例をあげてみよう。それは、公共工事である。

 イラク戦争の原因をみても、民主主義は揺れ動いている。戦後の世界政治は、鉄のカーテン、中華人民共和国の建国、植民地の相次ぐ独立、ソ連の崩壊、民族紛争、宗教紛争へと、常に大きく変動してきた。

 こうしたなか古くから今日に至るまで、強固な民主主義が地域に根付いている一方で、国家が微動だにしない国々がある。北欧諸国は2世紀も前から地方自治に強い権限を与えてきた。一見、驚くのはその政体が立憲君主制であることだ。それは、地方自治を守りながら一国をまとめるための知恵と妥協であるのかも知れない。デンマークやノルウェーというが、正しい国名は「デンマーク王国」「ノルウェー王国」である。王国であると同時に、個々の地域がそれぞれ権限を持ちながらも、北欧諸国は、福祉国家としても統一的である。予算に占める公共工事は多くない。なぜだろうか。

 再び、1929年に始まる大恐慌に話を戻す。どの教科書にも、アメリカ経済を救ったのは公共工事だと書かれている。失業者に仕事を与えるために、国が土木建設を発注し、アメリカ経済は復活した。
 だから不況対策は何が何でも公共工事だ、というのが日本である。こういうのを馬鹿の一つ覚えという。1930年代に北欧諸国は、福祉を拡大することで有効需要を作り出した。そして失業と不況を克服した。徹底した地方自治は、市民の生活を援助することに予算を配分した訳である。すなわち福祉国家とは、何も理想論ではなく、現実的な経済政策である。
 
 したがって日本がデフレ不況のなかで、医療費を伸ばすことは間違っていない。しかし、逆に政府は「高速道路をたくさん作る」などとして予算不足に陥り、福祉の切り捨て政策を強行している。それは全く正しくない。日本は今、政治の醜態と高まる失業率のなかで、民主主義が問われていると言っていい。

▽企業では医療職は動かない
 経営とは、もてる人材の一人ひとりが最大限に力を発揮する環境を作り上げるということである。株式会社の場合は、経営トップは個々の業務内容に習熟する必要がある。でなければ従業員は動かせない。

 私は、有料老人ホームを株式会社という組織体で経営している。通院の付き添いや本の朗読など入居者への個別サービスは、10割負担である。しかし、医療職である看護師の入居者へのサービスは例外で、個別料金を取っていない。入居者全員からいただく月々の管理費(共益費)や介護保険報酬で人件費を賄っている。そうしないと、看護師は思いっきり働けないし、数人の看護師はホームを去るかも知れない。となれば経営者として私は失格だ。


 私自身の17年にわたる社長体験からして、福祉の現場を株式会社という組織体で経営し利益を上げていくことは、並大抵の苦労ではない。いわんや、株式会社で病院を経営できるものなのか、大いに疑問だ。医療職にある人は、OTやPTを見ても組織への従属意識は薄く、患者のほうを向いている。経営者は、OT、PTの仕事を代わってこなすことはできない。医療の職種が多すぎるからだ。そして個々が専門性をもっている。それが医療の特徴だ。医師、看護師など数多くの様々な、かつそれぞれが仕事の内容が異なる医療職種を、どのように株式会社という組織体が統治し連携プレーをさせることができるのか。

 介護を専らとする老人病院については株式会社で運営できそうだが、すっきりと有料老人ホームになったほうがいい。また、「医師」イコール「株主」「経営者」ならば株式会社でも可能だ。ブラック・ジャックのようなスーパースターが独立すればいい。ただし、アメリカへ行ったほうが桁違いにもうかることは、医師ならば誰でも知っている。
 財界と経済学者は景気回復に無能ぶりを発揮している。そして、おかしな議論を医療界に持ち込んで仕事をしているつもりでいる。患者や医療人ばかりか国民全体も大いに迷惑な話だ。

滝上 宗次郎(たきうえ・そうじろう)氏略歴
 「グリーン東京」社長。こ東京女子医科大学(先端生命医科学研究所)非常勤講師。
専攻は、組織論、医療福祉経済一橋大学経済学部卒業。橋本内閣の6分野の構造改革では、経済審議会「医療・福祉作業部会」座長、規制緩和小委員会「厚生省」担当参与を務める。

グリーン東京
http://www.green-tokyo.com/
(了)

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