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 「戦場 澤田教一・酒井淑夫写真展」
     2002・3・26(火)―5・19(日)<日本新聞博物館>


▽誰にでも忘れられない写真がある
 誰にでも脳裏に焼き付いて、いつまでも忘れることのできない写真があるはずだ。私の場合、報道写真で3枚ある。
 1枚が澤田教一が1966年度ピュリツァー賞(ニ ュース写真部門)と第9回世界報道写真大賞を受賞した「安全への逃避」(FREE TO S AFETY)。生か死かの極限状態に置かれたベトナム人母子の表情をとらえた写真に、息が詰まるような思いをして見入った。
 2枚目が「Two Men With A Problem」。1961年 に撮影され、翌年、ピュリツァー賞を受賞した。ケネディ、アイゼンハワー両大統領 が、大統領山荘をうなだれるようにして、並んで歩いている姿を背後から撮った。二 人の後ろ姿に深い苦悩の色がにじみ出ていた。

▽この娘は宝子
 最後がユージン・スミスの水俣病の故・上村智子さんを母親が、大切な宝物を扱うようにお風呂に入れているシーン。新米記者の時代に、実際に取材でこの場面を見ているから、余計に印象が強いのかもしれない。昨年、「北鎌倉の景観を後世に伝える 基金」はNPO法人化記念シンポジウムを開いた。パネラーで女性初の欧州3大北壁完登者、かつ医師で登山家の今井通子さんが「人間は有害化学物質対する防御能力を持っていない。でも、母親だけは生き延びられるチャンスがある。何かというと有害物資を母乳で体外に出せる。妊娠中ならば羊水の中にどんどん出してしまう。そして子供は麻痺状態になる」と指摘した。母親は智子さんを「自分のからだの中の毒を吸い取ってくれた宝子」と大事に育てた。1枚の写真が、母親と娘の絆をあますことなく表現している。写真の表現力はとてつもなく深い。

▽酒井淑夫は稲村が崎をこよなく愛していた
 忘れることのできない3枚の写真のうちの1枚が「厳しい寒さが続いております。さて、皆様のご協力で準備中でした澤田教一・酒井淑夫写真展を以下の要領で開催します。つきましては、この展覧会の広報活動をお願いいしたくメールを差し上げました 」という1通のメールに添付されてきた。
 澤田教一の後輩である酒井淑夫も68年、 雨季の南ベトナムで土のうの上で仮眠をとる兵士と見張りをする兵士を撮った「より 良きころの夢」でピュリツァー賞を受賞している。
 酒井淑夫は生前、奥さんの実家がある鎌倉の極楽寺に住んでいた。稲村が崎をこよなく愛していたという。私は稲村が崎から見る江の島方面の風景が好きだ。日中もいいが、夕方が特にいい。左から順に真鶴半島、夕日、江の島、逆シルエットの富士山 が並んで見える。夕日が江の島に吸い込まれるように沈んでゆく。この瞬間は、悲しいくらいに美しい。きっと犬を連れて散歩していた酒井淑夫もこの夕日を眺めていたのだろう。フランスで料理の修行していた「ル・ポエット」(http://www.le-poete.net/)のオーナーシェフの梶原哲人さんも、稲村が崎から望む富士山が無性に恋しかったと話していた。
▽リアルの世界を再現
 写真展のポスターが、映画「地獄の黙示録」を連想させるつくりになっている。ただし、「地獄の黙示録」は映画、つまり「フィクションの世界」。これに対し、この 写真展には2人の写真家が、命をかけて撮影した「リアルの世界」が再現されている 。ポスターは、下記の「Web ギャラリー」にアクセスすれば、見ることができる。
http://www.kyodo.co.jp/kyodonews/2002/gallery/sawada/battlefield/


澤田教一が1966年度ピュリツァー賞(ニュース写真部門)、第9回世界 報 道写真大賞を受賞した「安全への逃避」(FREE TO SAFETY)=1965年9月6日、ク イニョン北方のロクチュアン村(UPI・サン=共同)


酒井淑夫が1968年度ピュリツァー賞(第1回企画写真部門)を受賞した 「より良きころの夢」(DREAMS OF BETTER TIMES)=1967年6月17日、南ベトナ ム・フオックビン北東60キロの着陸地点ルーフェ(UPI・サン=共同)
■二人のピュリツァー賞カメラマン「戦場」 
         澤田教一・酒井淑夫写真展 

べトナム戦争の写真でピュリツァー賞を受賞した、澤田教一と酒井淑夫の二人の写 真展「戦場」(主催 日本新聞博物館など)が横浜の日本新聞博物館で3月26日か ら5月19日まで開かれる。
 米国UPI通信社のカメラマンだった澤田の「安全への逃避」(1966年度受賞) と澤田の後輩だった酒井が撮影した「より良きころの夢」(1968年度受賞)を中 心に、過酷な戦場で必死に生き抜こうとする民衆や死の恐怖と隣り合わせの兵士の姿 など、約120点で構成されている。
 21世紀に入っても、米国同時多発テロ、アフガニスタン空爆など戦争は続いてい る。かつて米国が介入したインドシナを振り返ると、1965年2月、米国はベトナ ムで北爆を開始。同3月に地上戦に参入。70年にカンボジア、71年にはラオスに 侵攻し、インドシナ全域に戦争は拡大、泥沼化していった。
 澤田は戦況が激化した65年からこの戦争を取材していたが、70年10月28日 夕刻、プノンペン南のタケオへの国道2号線で狙撃され殉職。享年34歳。
 澤田の後を追う形でベトナムへ行った酒井は67年からサイゴン陥落直前の75年 3月まで、インドシナ解放後は大量に流出した難民を取材。99年11月病死。享年 59歳。
 展覧会には2人が取材に使ったカメラやメモのほか、コンタクトやビンテージ・プ リント、ピュリツァー賞賞状なども展示される。

【澤田教一、酒井淑夫経歴】
澤田教一(1936−1970)
 UPIに入社後、65年にサイゴンに赴任。66年、銃弾に追われ急流を渡るベトナ ム人母子を撮った写真「安全への逃避」(ニュース写真部門)でピュリツァー賞。6 9年香港を経て、70年に再赴任。同年10月28日カンボジアで取材中に銃撃され 死亡。34歳だった。なお澤田はピュリツァー賞以外にも以下の賞も受賞している。
1965年、第9回ハーグ世界報道写真展ニュース写真部門グランプリ「安全への逃 避」、第23回USカメラ賞「安全への逃避」
1966年、第10回ハーグ世界報道写真展ニュース写真部門1位「泥まみれの死」 、同2位「敵を連れて」、アメリカ海外記者クラブ賞「安全への逃避」、第24回U Sカメラ賞
1967年、アメリカ海外記者クラブ賞
1968年、第26回USカメラ賞「ユエ王宮の攻防」
1971年、ロバート・キャパ賞、講談社文化賞、アサヒカメラ賞

酒井淑夫(1940−1999)
 65年UPI入社後、67年にサイゴン支局に赴任し、インドシナ戦争を取材。68 年、雨季の南ベトナムで土のうの上で仮眠をとる兵士と見張りをする兵士を撮った「 より良きころの夢」でピュリツァー賞(第一回企画写真部門)。以後ソウル支局、AF P通信社東京支局写真部長などを経て、94年ビデオ企画制作会社を設立。99年1
1月21日死去。59歳だった。著書に「難民」(国書刊行会)がある 。

■開催要項■
●名称:二人のピュリツァー賞カメラマン「戦場」 澤田教一・酒井淑夫写真展
●会期:2002年3月26日(火)−5月19日(日)
●場所:日本新聞博物館 企画展示室
    〒231-8311 神奈川県横浜市中区日本大通11(横浜情報文化センター内)
    TEL:045−661−2040、FAX045−661−2029
●開館時間:10:00−17:00
●休館日:毎週月曜日、ただし祝日の場合は次の平日
●入館料:一般・大学生500円(400円)、高校生300円(200円)、中・小 学生100円(無料)。()内団体料金。
●アクセス:JR根岸線/横浜市営地下鉄「関内駅」徒歩10分、横浜市営バス「県庁前 」バス停徒歩1分 
 URL:http://www.pressent.or.jp/newspark/
主催:日本新聞博物館、神奈川新聞社、共同通信社
後援:日本写真家協会、テレビ神奈川、NHK横浜放送局
協賛:株式会社 ニコン、富士写真フイルム株式会社
協力:くれせんと、株式会社 写真弘社
連絡先:共同通信社事業本部事業部 
  TEL03−5572−6035 FAX03−5572−6037
    担当 坂本、木村
    kimura.akihiro@kyodonews.jp



 

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