2004
vol9

 シリーズ・団塊世代よ、帰りなん、いざ故郷へ!
 第9回<特別寄稿>まだ見ぬ「神幸祭」に思う

   ふるさとの山に向かいていうことなし
                    ふるさとの山はありがたきかな
                                  石川啄木

 間もなく還暦を迎える。人間の本性には「帰郷本能」が備わっているように思えてならない。その本能は人生という「旅路」が、終わりに近付けば近付くほど強まる…。例えば曹洞宗の開祖で、日本の誇る世界的な思想家でもある、あの偉大な道元禅師。「旅路」の終わりが来たことを悟った道元禅師は、布教活動の拠点の越前を離れ、生まれ故郷の京都に向かった。人は皆、故郷が恋しいのだ。

▽まぶたに浮かぶ東大社
 誰にでも遠く故郷を離れている時に、必ずまぶたに浮かぶ故郷を象徴するシーンがいくつかあるはずだ。私にとって氏神さまである東大社がその一つだ。娯楽の少なかった子ども時代。東大社の春と秋の例祭の際、境内に出店されていた露店での買い物が、最大級の楽しみだった。
 高校時代は自宅から東大社まで、小川に沿って続くあぜ道を、愛犬のシェパードの「クロ」と一緒に何度も何度も走った。雲井岬から眼下に広がる水田地帯を見るのが好きだった。特に初夏。青々とした水田を渡る風が涼やかだった。東大社の豊かな森に貯えらえれた地下水が時の経過を経て、地表に湧き出て小川と化し、氏子である農家に実りの秋を保証していたのだ。

▽次回は是非ともこの目で
 残念なことに、私は東大社の20年に1度の東総地方最大のお祭りといわれる「神幸祭」を実際に見たことがない。正確には見た記憶がないといった方が、正しいのかもしれない。6人兄弟である末っ子の私は、高校卒業と同時に18歳で、故郷の東庄町谷津を離れた。私が故郷にいた時に行われた、第51回「神幸祭」は1950年。2歳の時だった。多分、家族に見物に連れて行ってもらっていたはずだが、まったく記憶がない。
 第52回目の1970年は、大学生の時だった。多分、クラブ活動の春期合宿で、どこかで缶詰め状態になっていた。第53回目の1990年は、東京本社にいたが、仕事の都合で見に行けなかった。次回「神幸祭」は2010年だ。是非とも、「神幸祭」をこの目に焼き付けてみたい。多分、心身共に元気で「神幸祭」を見ることのできるラストチャンスのはずだ。

▽飯田秀真宮司には思い出が 
 「神幸祭」については「東庄町史研究第2号」(香取郡東庄町史編さん委員会)に飯田秀真氏(故人)が「東大社について」と題する論文の中で、目的、歴史、内容について詳しく説明されている。私のような「神幸祭・初心者」にも分かりやすかったので、要点を紹介したい。
 飯田氏は東大社の宮司をされていた。この他、東庄町文化財審議会長、国学院大学講師、京都国学院講師、明治神宮祢宜、熱田神宮権宮司、内閣祝典記録編集委員など数多くの役職にも就かれた。飯田氏は、故郷が誇りとすべき国学者であり、歌人、歴史学者でもある。
 光栄なことに、この飯田氏に私は思い出がある。確か、私が小学校6年の時だった。5月5日のこどもの日に飯田氏から、母校の橘小学校の生徒を代表して賞状をいただいた。賞状は東大社の神殿で、飯田氏から直接手渡された。父と母がとても喜んでくれた。実家の居間には、この賞状が今も大切に飾ってある。

▽総社たる東大社の神輿に、雷神社と豊玉姫神社の神輿が同行
 「東大社について」…………………………………………………………………………
飯田 秀真
[鎮座地]千葉県香取郡東庄町宮本字八尾山
[社名]東大神又は東大社 最も古く東宮又は八尾山と称し、堀川天皇の御代宣旨あって、惣社玉子大明神の称号を賜うと言う。……古来または俗にオウジン様と唱え、その名遠近に親しまれているが、これは王子大明神のオウジが訛ったものと思われる。
[祭神]玉依姫命。海神の御女。神武天皇の御母君。
[創立並びに由緒]景行天皇の御代五十三年、天皇親しく王子日本武尊東夷平定の跡を巡られ、上総国より海路当知に渡御、白旗の行宮に駐られること七日、十月庚申侍臣春臣命に勅して、八尾山に一社を営み、玉依姫命を祀きまつらしめ、東宮又は八尾宮と称え奉られたという。即ち現在の東大社である。……
[祭祀]……満二十年毎に、四月八日の例祭を中心に、前後約十日間に亘って、式年神幸祭が執行われる。堀川天皇の康和四年(1102)、海上郡高見浦(銚子市高見一体)にわかに海鳴り起こり、震動月余に及んで止まなかったので、四月八日、総社たる當社の神輿初めて高見に幸し、祭祀を行うに及び、海上忽ち浪静まり、爾来大漁豊作が続き、天皇は総社玉子大明神の称号を賜ったという。これにより毎年この日を以つて同地に渡御せられたが、天永元年(1110)に至り二十箇年一度の制とし、その間隔年桜井の浜(今の銚子市桜井町利根川畔)に神幸される事となった。式年の神幸は「大みゆき」とも言い、また「桜井みゆき」に対して「銚子みゆき」とも呼ばれる。

 四月八日早亘神輿出御、地元青馬、宮本両部落青年奉…氏子並びに関係諸郷の芸能を先供とし、御手洗及び敷薦塚(諸持)を経て、桜井御産宮に着御、古来の祭典を奉仕、それより大利根の流れに沿い、二十有余の町内の送迎を受けつつ高神に至る。この間、小舟木神遭塚では、當社に格別縁故深い、小見川町貝塚の豊玉姫神社及び海上町見廣の雷神社両社の神輿も合わせ奉安して、厳かな祭典が行われる。高神では渡海神社に御駐泊、翌日浪切旗を先頭に、外川の海中に渡御、続いて浜辺の広場で、厳粛盛大な祭祀が斎行され、裃姿の宮三郎以下山口一門が神輿に海水を濯ぐ儀がある。終って神輿は旧跡を経て、山口宮三郎(一般にミヤサブという)宅に渡御される。

 先ず海水に濡れた水引絹を徹して、同家より献る新しいのに替え、祭典が執行われる。水引絹は、本社鎮座地八尾山から涌き出でて北方に流れる水を引いて水田を耕す、今郡、谷津、羽計及び鹿野戸の四部落と、同じく東に流れる水によって耕作する、諸持、今泉、宮原及び桜井の四部落から、神輿に巻くために献る絹で、桜井神幸の時は北側東側交互に奉納する。宮三家の祭典が終って、おすべらかし礼装の山口家の乙女が進んで、静かに扇を三たび挙げ、「おうじん様お発ちませ」と申す声を合図に、神輿は遷幸の途に着かれる。かくして銚港神社に御駐泊、白幡神社等に御駐レンの上夫々奉迎の祭典が行われる例である。

 この神幸に際し、特に関係深い豊玉姫神社及び雷神社の神輿も同行されるが、往古は氏子十二郷より十二基の神輿が出で従われたという。尚この大神幸には古来氏子並びに旧縁の各郷は、何れも時代風俗や伝統の芸能を以つて供奉したが、現在は次の諸郷が奉仕する。……東庄町羽計郷は大名行列、今郡郷は源頼朝富士の巻狩、谷津郷は剣舞、……沿道は至る所両側に奉迎拝観の人垣を築く中にも、要所二十有箇所には所謂関所を設け、殿様を始め家老、使者役、門番等の所役が詰めて応対、行列を迎え、又関所の下手には桟敷を構え、土地の老幼家族は勿論、全国各地から寄り集う新類縁者悉くここに会し、真近に神輿を拝し心ゆくまで芸能を観賞して、長い春の日の移るのも忘れる。「オウジン様の御神幸に何べんあつた」というのが、地方一帯の長生きの合い言葉である。……

▽ 父は大石内蔵助、長兄は使者役
 私の生まれ育った谷津は、東大社に秋の実りを保証してもらう「お礼」として、神幸祭の時、神輿に巻く水引絹を提供する同時に、剣舞を供奉していたのだ。実家はどのような関わり方をしたのだろうか。母のウメに聞いてみた。ウメによると、第50回目の1930年は、剣舞「忠臣蔵」を供奉し、当時26歳だった父の新(故人)が大石内蔵助を演じたという。
 第51回目の1950年は、新が谷津郷の区長として剣舞を仕切り、当時14歳だった長兄の仁(故人)が、一行の使者役を演じたという。長兄は陣笠を被り、母が手縫いした裃を身に着け、部落の境界線ごとに設けられた関所で、口上を述べたという。「まだ、中学生だったのに、立派に出来て。『百姓にはならんで、役者になれ』と掛け声までかかったんだ。祝儀ももらったんだよ」。母はまるで昨日の出来事のように、当時を懐かしむ。

▽高度経済成長と共に「行列」離脱
 しかし、谷津は第52回目の1970年以降、神幸祭の「大名行列」から離脱したという。元々谷津は、所帯数が27戸と隣接する部落に比べて、規模が小さい。大名行列を構成するには、約20人の大人が必要になる。本来なら大人が演ずべきだった使者役を、中学生だった兄がを務めたのは、弱小部落の谷津には、男の大人の数がいなかったからだ。「準備も大変で、仕事にならなかったから」と母。
 谷津が「大名行列」を離脱した1970年代は、日本は高度経済成長の真っただ中にあった。私たちのような若年労働者が、地方から都市へ集団移住して高度経済成長を支えた。結果として日本は、世界有数の経済大国になった。一方で、地方の過疎、高齢化と都会の過密と孤独化という深刻な事態を生み出した。谷津の「大名行列」離脱は、弱小部落という現実に、歴史の大きな流れが追い討ちをかけた結果といえるだろう。

▽「神幸祭」は大いなる文化遺産
 特別寄稿するに当たり、さまざまな文献を調べると同時に、元旦の日に帰郷し、故郷の思いでの地をこの目と足で確認した。年賀の参拝客の姿があった東大社の豊かな森は、私を暖かく迎えてくれた。旧橘中学校の跡地の高台から、滔々と流れる利根川を眺めた。流れの先は、太平洋の大海原だ。下総大地のほくほくとした黒土で元気に育つ、キャベツ、長ネギから元気をもらった。
 「神幸祭」は、肥沃な下総台地、悠久の利根川、果てしなき太平洋という類い稀な「風光」の中で育まれた、大いなる文化遺産であることを痛感した。先人が努力を積み重ねて残してくれたこの遺産を大切にしたいと思う。そして、故郷の谷津部落が、「神幸祭」の「大名行列」に復帰する日の来ることを念じたい。

東大社社務所前で記念撮影 いざ出陣!(最前列中央が仁)
当時、神幸祭は庶民の最大の娯楽だったかも
(写真中央右が使者役として口上を述べている仁)
凛々しく口上を述べる中学生の仁
ここには昭和20年代の農村風景が… 年賀の参拝客の姿が見える東大社
下総台地から見た利根川、流れの先(右)は太平洋だ
下総台地の黒土とキャベツ 下総台地の黒土とネギ


【プロフィール】
 野口 稔(のぐち・みのる)
 1948年千葉県香取郡東庄町谷津生まれ。東庄町立橘小、中学校卒、千葉県立佐原高卒、一橋大学経済学部卒。1972年共同通信社入社(http://www.kyodo.co.jp/)。福岡支社、長崎支局、大阪支社経済部、本社経済部などを経て2004年7月から本社メディア局編集部担当部長。任意団体・北鎌倉湧水ネットワーク(http://www.kitakama-yusui.net/)代表。著書に「北鎌倉発 ナショナル・トラストの風」(夢工房)。「
サラリーマン・スタイル・ドットコム」(http://www.salaryman-style.com/)に橘京介のペンネームで、定期連載コラム「男の原風景」執筆中。ペンネームの橘は、故郷の地名に由来する。

*私の故郷の東庄町は、千葉県北東部に位置し、東京から約80キロの距離にある。低地は水田、平地は畑、丘陵地は森林地帯となっている。北端を利根川が走り、豊かな水量を大平洋に注ぎ込む。自然が豊かな町である。だが、1980年に約18、500人だった人口 は現在、約17、000人に減少、緩やかな人口流出が続いている。
 東庄はかつて橘庄と呼ばれていた。地名が変わったのは、鎌倉幕府創設者の源頼朝に「常胤(つねたね)は第二の父である」であるいわしめるほど絶大な信頼を得た鎌倉幕府、屈指の御家人、千葉常胤の六男・胤頼が、東庄周辺の領主となり「東」を名乗ったためだ。

*この原稿は東庄町郷土史研究会からの依頼によって、「東庄の郷土史」に寄稿した。依頼者の了解を得てこのHPに掲載した。
                    
                                        (了)

 

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