2004
vol.3

 シリーズ・団塊世代よ、帰りなん、いざ故郷へ!
 ー第6回「目標はホワイトボールで金メダル獲得!」ー

 目標はホワイトボールで金メダル獲得!
―市場を意識した農業経営に取り組む小堀敏雄さん―

【プロフィール】1947年2月23日生まれの56歳。専業農家の後継者として、千葉県香取郡東庄町夏目に生まれた。23年前から、肥沃な下総台地の地力に着目し、生産品目をホワイトボール(コカブのブランド名)に特化、マーケットを意識した農業経営に取り組んでいる。小堀さんたちのグループがつくったホワイトボールは、東京・築地市場で日本一の折り紙が付けられた。

▽背景にスーパーの台頭が
 小堀さんは、畑3、5ヘクタール、水田3ヘクタールを保有する専業農家の長男に生まれた。日本の平均的な農家に比べると経営規模はかなり大きい。兄弟は妹一人。早くから農業後継者の道を宿命付けられた。小堀さんが保有している水田は、東庄町・干潟町・旭市・八日市場市にまたがる千葉県内有数の稲作地帯である干潟八万石の中にある。ただし、ここで紹介するのは小堀さんのコメづくりではなく、情熱を傾けているホワイトボールづくりだ。
 小堀さんがホワイトボールに特化したのは、時代背景にスーパーの台頭がある。「ホワイトボールの質がいいので、1年を通じて、出荷してくれないかと築地市場青果仲卸協同組合関係者に頼まれたからです。ホワイトボールは、それ以前は12月から3月までの野菜でした。街の八百屋は旬の野菜しか扱っていませんでしたが、スーパーは違う。12ケ月販売したいという意向を持っていました」。23年前のことだった。

▽独学で徹底的に土を勉強
 「東庄町は温暖な気候で、呑気にやっていても食べるのには困りません。でも、それではつまらない。やってみるかと決断しました」。生産したら販売は、農協にお任せという旧来のスタイルではない。市場を意識した農業経営への転換を迫られた。一筋縄ではいかない。小堀さんの挑戦が始った。「品質のいいものをつくることと継続的な安定出荷。この二つのことが必要不可欠だと考えました」
 土づくりと仲間づくり。小堀さんは、勝利を勝ち取るには、この二つが鍵を握ると考えた。「ホワイトボールはもともと寒い時期の野菜です。気温が上がれば当然、病気が出てきます。品質のいいものを四季を通じてつくり続けるには、土が生命線だと思いました。ホワイトボールに合った土の条件を知るために、本を読んだり、農業試験場の先生に聞いたり、独学ですが、徹底的に勉強しました」


出荷に備え、収穫したホワイトボールを
水洗いする小堀敏雄さん
笹川繁蔵の碑と
剣客・平手造酒の墓(延命寺)

▽「危機管理」の思想に通じる仲間づくり
 ホワイトボールを生産している畑には、化学肥料は使わない。堆肥を適量入れ、肥料のバランスを考える。農薬の使用は最低限だ。「人間と同じです。『体』が強ければ、病気になりません。『体』が弱いから『薬』に頼らざるを得ないのです。土を知ることが、これほど難しいものだとは思っていませんでした。いまだに連作障害がなぜ起きるのか、その理由が解明されていません。底が見えないのです。でも、最近ようやく土と対話ができるようになってきました」
 15人の仲間を募ってスタートしたが、仲間づくりは「危機管理」の思想に通じる。「例えば台風に襲われたとします。仲間の畑が山陰にあれば、被害を免れることができます。500ケースは無理でも、も30ケースは出荷できるかもしれない。市場で野菜を売るには、最初に信頼関係を築く必要があると思いました。言い訳は絶対にしない。当てになる産地にならなければと考えました。作付け計画および出荷計画も当然のことながら、作りました」
 
▽卓球で千葉県のベスト4に

 小堀さん個人のホワイトボールの作付け面積は約7ヘクタール。所有している畑3、5ヘクターに加え、他の農家からほぼ同じ面積を借りている。有力な働き手だった父親は、既に80歳を超えた。無理をさせることできない。働き者だった母親は交通事故の後遺症で、介護が必要な状態だ。小堀さんの後継者となるはずの長女夫婦が、帰ってくるのはまだ先のことのようだ。夫婦2人の手には負えない。そこで、周辺の主婦にパートで働いてもらっている。
 なぜ、小堀さんがマーケットを意識した農業経営を展開してるのか? 私はその答えは、卓球だと思っている。地元の農業高校に進学した小堀さんは、中学時代から始めた卓球の腕を上げ、千葉県の高校生の個人のベスト4に入った。東京の複数の大学がスカウトに来た。しかし、農家の後継者ということで断念した。一時的に目標を失った小堀さんは荒れた。「高校卒業後、バンドを組んだり、今でいえばフリーターみたいなことをしていました」

▽「俺のところで働いてみないか」
 「俺のところで働いてみないか」。築地市場で手広く青果商を営んでいた義理の叔父が、見かねて声をかけてくれた。小堀さんは「オヤジ」と呼ぶ。「18歳から21歳までお世話になりました。最初はどなられてばかりで、反発しました。『オヤジ』は小学校しかで出ていませんでしたが、一日何か一つ掴もう、日々無駄に生きないという姿勢が、徹底していました。次第に『オヤジ』の人間の大きさが分かってきました」
 一緒に働いていた同僚からも強い影響を受けた。「彼の実家は船会社を経営していましたが、倒産してしまいました。彼は朝5時から働き、自分で働いたお金で夜間の大学に通っていました。しかも、実家に仕送りまでしていたんです。自分の甘さを痛感しましたね」。築地市場で、小堀さんは生き方とマーケットについて、しっかりと学んだのだ。「高校時代、卓球でいいところで負けた。自分を甘やかしていたからだと思います。今思うことは、一生かけて、ホワイトボールで、日本チャンピオンを越えることです。世界の舞台で金メダルを取りたい」

▽緩やかな人口流出続く東庄町
 東庄町は私の故郷でもある。「お国自慢」をしてみたい。東庄町は千葉県北東部に位置し、東京から約80キロの距離にある。低地は水田、平地は畑、丘陵地は森林地帯となっている。北端を利根川が走り、豊かな水量を大平洋に注ぎ込む。自然が豊かな町である。だが、1980年に約18、500人だった人口 は現在、約17、000人に減少、緩やかな人口流出が続いている。
 東庄はかつて橘庄と呼ばれていた。千葉氏探訪(千葉日報社発刊)の著者で地方史研究家の鈴木 左(たすく)さんによると、地名が変わったのは「鎌倉幕府創設者の源頼朝に『常胤(つねたね)は第二の父である』であるいわしめるほど絶大な信頼を得た鎌倉幕府、屈指の御家人、千葉常胤の六男・胤頼が、東庄周辺の領主となり『東』を名乗ったためだ」という。まったく意識していなかったが、故郷と現在住んでいる鎌倉市は、千葉氏を通じて縁があったのだ。

▽「天保水滸伝」の舞台
 「利根の川風袂に入れて月に棹さす高瀬舟」。これを読んでピンと来るのは、きっとオヤジ世代やそれよりももっと上の世代に違いない。そう、浪曲や講談で有名な笹川繁蔵と飯岡助五郎、二人の侠客の勢力争いの物語である「天保水滸伝」の世界である。「天保水滸伝」は、利根川と東庄町(笹川地区)が舞台になった。当時、利根川が物資輸送の大動脈で、利根川に近い笹川地区が、流通の拠点になっていたと思われる。
 小堀さんは私の従兄弟である。私の母の妹の長男だ。子どもの時「トシボー」、「ミノル」と呼び合っていた。それは今でも変わらない。彼の「百姓」としての仕事ぶりを見たのは、今回が初めてだった。すごく様になっていた。下総台地にしっかりと根を生やしていた。彼の姿を見て、少し、胸が熱くなった。従兄弟とかそういった関係は抜きにして、「トシボー」のような意欲的な「百姓」が、故郷にいてくれて本当によかったと思う。「トシボー」に続く若い世代の出現を切望している。 
(了)


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